歴史はなぜ繰り返すのか  対称年表と近代70年サイクル・No.
(文中敬称略)
開設    2006(平成18)年11月4日
(この間省略)
更新    2009(平成21)年9月2日
更新    2010(平成22)年4月29日
更新    2010(平成22)年10月31日
更新    2011(平成23)年1月1日
更新    2011(平成23)年10月10・16日
更新    2011(平成23)年12月18・19・24日
更新    2012(平成24)年1月4日
更新    2012(平成24)年4月1日
更新    2012(平成24)年11月18日
最新更新 2013(平成25)年1月3日

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対称年表 1929-1935/2001-2007

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対称年表と近代70年サイクル No.1 目次
 プロローグ 対称年表とは何か
▼先駆者の軌跡
 第1部 対称年表・1919〜1936と1989〜2008
▼どこから対称を始めるのか
▼大戦とバブル勃興
▼大戦終結とバブル崩壊
▼ドイツとソ連―“挑戦国”の体制崩壊
▼ドイツとソ連―“敗戦国”の無残

 プロローグ 対称年表とは何か
 対称年表とは、第1次大戦終結後と米ソ冷戦終結後の双方において、日本と世界に起こった出来事に多くの共通点があることに気付いたわたくし(管理人)が作成した、双方の歴史を分かりやすく示すために対称(シンメトリー)式に並列・併記した年表のことである。
 似ているのは第1次大戦終結後と米ソ冷戦終結後だけというわけではないらしい。どうやら近代の世界の歴史は、50〜70年を1つの周期(サイクル)として繰り返しているようなのである。
 この近代70年サイクル(詳しくはNo.6で後述する)は、わたくしの調べによれば、1748年ごろを起点としてスタートし、1763〜1815年、1815〜1871年、1871〜1945年と、今までに3回繰り返されており、2013年現在は、1945年から続く第4サイクルの途中にあるようである。
 この第4サイクルのうち、1945年から1989年までは、歴史の大勢の流れは似ているが、詳細に見て行くと相違点も多い。しかし1989年以降の歴史は、詳細な点においても絶妙の一致を見せているのである。
 このため、まずは、第1次大戦終結後と米ソ冷戦終結後の日本を比較していきたい。

 第1次大戦終結後と、米ソ冷戦終結後の、最もわかりやすく対称できる部分を簡単な年表にしてみると、以下のようになる。
表1-1             第2次大戦前と現代の大まかな対称年表
共通する出来事 第2次大戦前  現代
日本のバブルの開始 1916年  大戦ブーム 1985年  プラザ合意
世界システムの一変 1919年  第1次大戦終結 1989年  米ソ冷戦終結
日本のバブル崩壊 1920年  反動恐慌 1990年  東京市場下落
日本の大震災  1923年  関東大震災 1995年  阪神大震災
日本の経済危機 1927年  金融恐慌 1997年  平成金融危機
再び世界システムの一変 1929年  世界恐慌はじまる  2001年  米同時多発テロ
世界大戦への序曲 1931年  満州事変 2003年  イラク戦争
 わたくしが文章でうだうだと言わずとも、この年表を御覧頂けさえすればすぐに理解して頂けると思うのだが、双方は同じパターンを辿っているようなのである。
 “前回”(第2次大戦前)の歴史と似ているところも多々あるが、さりとて、ただなぞっているわけでもなく、新しい種類の出来事も起こっているようなのも明らかだろう。歴史がそのまま同じことを2度3度と繰り返すわけではないから、当たり前なのだろうが。
 しかし、70年サイクルにおいては、ある出来事が前サイクルに引き続いて適用されている一方で、ある出来事は引き継がれず、スルーされている。この差の基準は一体どこにあるのだろうか?
▼先駆者の軌跡
 「歴史の70年周期」は、最近あちこちで取り上げられるようになっている。
 しかし、現在の歴史が、過去の一体どの時点に似ているのか、数ある指摘のほとんどは、的はずれ、見当違いの指摘ばかりのように見える。
 もう、近視眼的な歴史の見方はやめよう。
 しかし、そんな中でも、注意深く見ていくと、今回の危機を早くから予測していた人も多くいるのである。
 浅井隆氏は『30年不況』(第二海援隊、1998)104-105頁、『日本発世界大恐慌はやってくるか』(第二海援隊、1998)45-49頁において、「1990年のバブル崩壊以降の日経平均株価と、1929年の大暴落以降のニューヨーク・ダウは同じパターンだ」と指摘している。
 浅井氏の『大不況サバイバル読本』(徳間書店、1993)186-187頁において、ウイリアム・リースモッグ、ジェームズ・デビットソン共著『大いなる代償』(経済界、1992)が紹介され、「日本で大地震が起こり、世界経済も数年以内に崩壊、世界は弱肉強食の論理が支配される暗黒時代に逆戻りする」とされている。
 そもそも、わたくし(管理人)が『大不況サバイバル読本』を読んだきっかけは、荒巻義雄氏の『旭日の艦隊11』(中央公論社Cノベルズ、1995)に、


「『大不況サバイバル読本』という本のことですが、ちょっと気になることがあり、読み返してみたわけです。
 というのは、阪神大震災が襲ったからで、同著186ページに『日本で大地震が起こり、世界経済も数年以内に崩壊、世界は弱肉強食の論理が支配される暗黒時代に逆戻りする』と書かれていることを思いだしたからです。
 これは、1987年のブラック・マンデー(ウォール街の株価崩壊)とその後のソ連崩壊を予告した、ウイリアム・リースモッグ(元英タイムス記者)氏と米経済アナリストのジェームズ・デビットソン氏が共著で出版した『大いなる代償』(訳書は経済界刊)に書かれていた予言だそうですが、その他、様々な予兆と考え合わせると、あるいはという気がしないでもない」
(207 - 208頁)


 と紹介されていたからだ。
 しかしわたくしは『大いなる代償』の186ページも読んだが、該当箇所を発見できなかった。該当箇所をご存知の方は是非お教え願いたい。
 けれども、「日本で大地震が起こり、世界経済も数年以内に崩壊、世界は弱肉強食の論理が支配される暗黒時代に逆戻りする」という記述は、第2次大戦前の歴史、つまり関東大震災(1923年)→ニューヨークの株価大暴落(1929年)による世界恐慌→満州事変(1933年)という流れに基づくものに間違いない。リースモッグとデビットソンの両氏は、また同じサイクルが日本で繰り返されるだろう、と確信したのだと思われる。

 山田伸二氏は、『大恐慌に学べ』(東京出版、1996)17-20頁、『世界同時デフレ』(東洋経済新報社、1998)23頁において、日経平均とダウ、双方の株価の推移を比較した表を掲載して、浅井隆氏と同じ見解を示している。
 ラビ・バトラ氏は『2002年の大暴落』(あ・うん、2001)64-67頁において、「60年周期が、日本がバブル崩壊後構造改革をしなかったため10年遅れた」と指摘している。
 大澤真幸氏は『戦後の思想空間』(ちくま新書、1998)10-14頁において、「2つの六十年間」として、現在の日本と第二次大戦前の日本を比較している。
 しかし、わたくしが見たところ、バブル崩壊後の日経平均株価と同じパターンなのは、第1次大戦の戦後恐慌(1920年)によって暴落した日本の株価のようなのである。これを見事に指摘しているのが、水野隆徳氏と塩田潮氏である。
 水野隆徳氏は、早くも『ニッポン発 金融大崩壊』(実業之日本社、1995)において、バブル崩壊後の現在(1989〜)と昭和戦前(1920〜)の経済の共通点をはっきり指摘している。
表1-2    大正と昭和・平成バブル崩壊の共通点(『ニッポン発 金融大崩壊』128頁より転載)
1920年 第1次大戦中・戦後のバブル崩壊(商品・株式・地価大暴落) 1990年 80年代のバブル崩壊(株式・地価大暴落)
1923年 関東大震災により銀行の不良債権問題深刻化 1993年 株式・地価暴落により銀行の不良債権問題深刻化
1995年 阪神大震災発生
1927年 昭和金融恐慌発生 X年 平成金融恐慌発生?
 水野隆徳氏は、第1次大戦後と米ソ冷戦後の歴史の相似を、最も早く指摘した1人だろう。
 続いて水野隆徳氏は『日本潰滅』(徳間書店、1998)172頁において、『ニッポン発 金融大崩壊』出版の後の動きを追跡している。
表1-4   昭和金融恐慌と平成金融恐慌の比較(『日本壊滅』172頁より転載)
1927年 昭和金融恐慌勃発 1997年 平成金融恐慌勃発
日産生命保険、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券破綻
1929年 ニューヨーク株式大暴落 1999年 ニューヨーク株式大暴落?
1930年 世界恐慌
日本金解禁
2000年 世界恐慌?
2001年 日本版金融ビックバン完結
 水野隆徳氏はその後も「日本がIMF管理下に置かれる日は近い」(「正論」2002年3月号)などの論考において、続発している共通点を指摘し続けている。
 一方の塩田潮氏は、『金融崩壊』(日本経済新聞社、1998)(『バブル興亡史』と改題され日経ビジネス人文庫から出版、2001)で昭和戦前(1919〜1934)を描き、現在(1989〜)と昭和戦前(1920〜)の共通点を、経済はもとより社会構造の変化まで含めてはっきり指摘している。
 さらに、恐らく塩田潮氏も『金融崩壊』と対称させるつもりで書いたのだろう『大国日本の幻』(講談社、2002)においては、バブルがはじまった1985年ごろからの現代の日本の歴史を描いている。

 金子勝氏は、水野隆徳氏や塩田潮氏より5年あまり遅れて、金子勝『長期停滞』ちくま新書、2002、57-60頁において、水野と同じような指摘をしている。特に『長期停滞』58頁の表は、水野氏の著作とほぼ同内容である。

表1-4      『長期停滞』58頁より
1920年代と1990年代
1920年    大戦景気の崩壊
1922-23年  銀行取付け騒動
1923年    関東大震災
1927年    金融恐慌
1928-29年  米国バブル
1929年    株式市場暴落
1930年    金再輸出解禁
1991年     バブルの崩壊始まる
1994-95年   信組の連鎖破綻と住専問題
1995年     阪神淡路大震災
1997年     金融システム不安(山一・拓銀の破綻)
1999-2000年 米国バブル
2000年     ナスダック・バブル崩壊
2001-02年   金融・会計ビッグバンの実施


 けれど、以上の諸氏は、その書籍・論文の発表当時までの双方の共通点しか指摘していないケースがほとんどである。
 昭和戦前という、手本となるテキスト(先例)があるのだから、テキストを見ればある程度は未来の出来事も指摘できるはずなのに、指摘はなされていない。
 さらに、1985〜2004年と1916〜1933年が似ているのなら、その前後は一体どうなっているのだろうと、当然想像力が働くと思うのだけれど、諸氏は、専門分野外だからか、あるいは遠慮しているためか、サボっているようにみえる。しかしわたくし(管理人)はいち無名人に過ぎないので、遠慮せずにこうして指摘するのである。



 さらに、諸氏は経済の専門家であるためか、経済恐慌の後にやって来るであろう戦争には、浅井隆をのぞいては、ほとんど言及していない。
 けれども、第2次大戦前の歴史が、第1次大戦終結(1919年)→関東大震災(1923年)→ニューヨークの株価大暴落(1929年)→第2次大戦(1939〜45年)→という経過を辿ったのであれば、現在の歴史が、米ソ冷戦終結(1989年)→阪神大震災(1995年)→米同時多発テロ(2001年)→第3次大戦(201?年)という歴史を辿らないと、誰が断言できるだろうか。
 戦争についても学ばなければ、対称されている歴史の流れに対して、とても言及できないのではあるまいか。
 第1部は、その酷似している部分を詳細に追っていきたい。

 第1部 対称年表・1919〜1936と1989〜2008

▼どこから対称をはじめるのか
 年表を重ね合わせる場合、対称のスタート地点を設定しなければならないだろう。このスタート地点を“基準点”と呼称したい。
 第1次大戦終結後と米ソ冷戦終結後の双方の歴史を見て行く今回、“基準点”は第1次大戦が終結した1918年11月11日、およびマルタ会談で米ソ首脳が冷戦終結を宣言した1989年12月3日に設定した。ここをスタート地点にして、双方の年表を重ね合わせると、表1-5のようになる。
表1-5     対称年表  1918-1929/1989-2001
★印を付け、なおかつ「第1次大戦終結後の世界」と「米ソ冷戦終結後の世界」の双方で同じ色を使用している出来事は、双方が対称可能な出来事であることを示している(色は、対称可能な出来事の時系列順に、を交互に繰り返し使用している)。
第1次大戦終結後の世界(1918〜1929) 米ソ冷戦終結後の世界(1989〜2001)




出来事



出来事
1918(大正7)年 11月

(政

会)

★第1次大戦終結
基準点
1989(平成元)年 12月



(自

党)

★米ソ首脳(ブッシュ、ゴルバチョフ)マルタ会談、冷戦終結宣言
日経平均、38915円(史上最高値)
12月 1990(平成2)年 1月
1919(大正8)年 1月 パリ講和会議開催 2月 ★東京株式市場の下落はじまる
2月 3月 ゴルバチョフ、ソ連初代大統領に就任(在任〜1991、12)
3月 4月
4月 5月
5月 6月
6月 ベルサイユ条約締結 7月
7月 ドイツ、ワイマール憲法成立 8月 イラク軍、クウェート侵攻
8月 9月
9月 10月 東西ドイツ統一
10月 11月 イギリス、ジョン・メージャー内閣成立(在任〜1997、5)
欧州通常戦力条約(CFE)締結
11月 12月
12月 1991(平成3)年 1月 湾岸戦争開戦
1920(大正9)年 1月 国際連盟発足(本部ジュネーブ) 2月 湾岸戦争停戦
2月 3月
3月 ★日本、戦後恐慌はじまる 4月
4月 5月
5月 6月 ロシア大統領選、ボリス・エリツィン当選(在任〜1999、12)
6月 7月
7月 8月 ソ連で保守派のクーデター発生(三日天下に終わる)
8月 9月
9月 10月
10月 11月



(自

党)

宮沢喜一内閣成立(第78代首相)
11月 米大統領選、ウォーレン・ハーディング(共和党)が当選 12月 ソビエト連邦解体、独立国家共同体(CIS)創設
12月 1992(平成4)年 1月
1921(大正10)年 1月 2月 EC、マーストリヒト条約調印
2月 3月
3月 米、ハーディング大統領就任(在任〜1923、8) 4月
4月 5月
5月 6月
6月 7月
7月 中国共産党成立 8月 日経平均14822円(バブル崩壊後1番底)
8月 9月 カンボジアPKOに自衛隊派遣
9月 10月
10月 11月 米大統領選、ビル・クリントン(民主党)が当選
11月



(政

会)

原敬首相暗殺
高橋是清内閣成立(第20代首相)
12月 韓国大統領選、金泳三が当選(在任〜1998、2)
12月 日英同盟破棄 1993(平成5)年 1月 クリントン米大統領就任(在任〜2001、1)
米露、STARTU調印
釧路沖地震
1922(大正11)年 1月 2月
2月 ワシントン条約締結 3月
3月 4月
4月 5月
5月 6月 皇太子殿下と雅子妃の御成婚
宮沢内閣不信任案成立、衆議院解散
自民党からの離党者により新生党、新党さきがけ結成
6月




(海
軍)

加藤友三郎内閣成立(第21代首相) 7月 北海道南西沖地震
衆議院総選挙。新党各党躍進、社会党敗北、自民党退潮
7月 8月



(日


党)

細川護煕連立内閣成立(第79代首相。日本新・新生・さきがけ・社会・公明・民社連立政権)、自民党は結党以来初の野党に
8月 9月
9月 10月
10月 イタリア、ムッソリーニ率いるファシスト党がローマ進軍 11月 マーストリヒト条約発効、EU発足
11月 12月
12月 島原湾地震
ソビエト社会主義共和国連邦成立
1994(平成6)年 1月
1923(大正12)年 1月 フランス・ベルギー軍、ドイツのルール地方を占領 2月
2月 3月
3月 4月

羽田孜連立内閣成立(第80代首相)
4月 5月
5月 6月



(社

党)


自民党、社会党の村山富市委員長を首班候補として擁立
村山富市連立内閣成立(第81代首相。社会党・自民党・新党さきがけの3党連立政権)。自民党、政権に復帰
6月 7月 金日成北朝鮮国家首席死去
7月 8月
8月 米ハーディング大統領急死、カルビン・クーリッジ副大統領が昇格(在任〜1929、3)
加藤首相死去
9月
9月




(海
軍)
★関東大震災
山本権兵衛内閣成立(第22代首相)
10月 北海道東方沖地震
10月 トルコ共和国発足 11月
11月 ドイツのハイパーインフレ頂点に達する
ドイツでミュンヘン一揆、アドルフ・ヒトラー投獄される
12月 三陸はるか沖地震
12月 虎の門事件。山本内閣総辞職 1995(平成7)年 1月 ★阪神・淡路大震災
1924(大正13)年 1月



(枢

院)
清浦奎吾内閣成立(第23代首相)
レーニン死去
2月
2月 3月 オウム真理教による地下鉄サリン事件
3月 4月 円ドル相場、1ドル=79円75銭(戦後最高値)
4月 5月 フランス大統領選、ジャック・シラク当選(在任〜2007、5)
5月 アメリカ、排日移民法成立 6月
6月



(憲

会)

加藤高明内閣成立(第24代首相) 7月 日経平均14485円(バブル崩壊後2番底)
7月 8月 太平洋戦争終戦50周年
8月 ドイツの第1次大戦賠償計画のドーズ案成立 9月 沖縄にて米兵の少女暴行事件発生、米軍基地の反対運動高まる
9月 10月
10月 11月 イスラエルのラビン首相暗殺
11月 12月
12月 1996(平成8)年 1月




(自

党)

橋本龍太郎連立内閣成立(第82代首相)
1925(大正14)年 1月 2月
2月 3月 中国、台湾総統選挙に対し弾道ミサイルを試射して威嚇
3月 孫文死去 4月
4月 治安維持法公布
ドイツ大統領選、パウル・フォン・ヒンデンブルク当選(在任〜1934、8)
5月 日米首脳会談。日米安保体制強化を確認
5月 普通選挙法公布
但馬地震
6月
6月 7月
7月 8月 エリツィン露大統領再選
8月 第2次加藤内閣成立(第25代首相) 9月
9月 10月
10月 欧州各国、ロカルノ条約締結 11月 クリントン米大統領再選
第2次橋本内閣成立(第83代首相)
11月 12月
12月 1997(平成9)年 1月 オウム真理教への破防法適応見送り決定
1926(大正15年・昭和元)年 1月 加藤首相死去
第1次若槻礼次郎内閣発足(第26代首相)
2月 中国、鄭小平死去





(憲

会)

2月 3月 ドイツ、ボスニアで第2次大戦後初の戦闘行動を実施
3月 4月
4月 治安維持法改正公布 5月 イギリス、トニー・ブレア首相就任(在任〜2007、6)
5月 普通選挙法公布 6月
6月 7月 イギリス、中国に香港返還
タイ通貨バーツ暴落、アジア経済危機はじまる
7月 中国国民党、北伐開始 8月
8月 9月
9月 ドイツ、国際連盟加入 10月
10月 11月 ★三洋証券、拓銀、山一証券破綻(平成金融危機)
ドイツ、ゲアハルト・シュレーダー首相就任(在任〜2005、11)
11月 12月 韓国大統領選、金大中が当選(在任〜2003、2)
12月 大正天皇崩御、昭和に改元 1998(平成10)年 1月
1927(昭和2)年 1月 2月 長野冬季オリンピック開催
2月 3月
3月 丹後地震
★金融恐慌おこる
4月
4月



(政

会)

★田中義一内閣成立(第26代首相) 5月 インド・パキスタン、核実験実施
5月 第1次山東出兵 6月
6月 立憲民政党結成 7月



(自

党)

★自民党、参議選で大敗。橋本内閣総辞職
小淵恵三内閣成立(第84代首相)
7月 中国、国共分離 8月 ロシア金融危機(ルーブル暴落)
北朝鮮、テポドン弾道ミサイル試射
8月 9月
9月 南京・武漢政府合体 10月 日経平均12879円(バブル崩壊後3番底)
10月 11月
11月 12月
12月 1999(平成11)年 1月
1928(昭和3)年 1月 2月
2月 日本初の男子普通選挙 3月 日本海で北朝鮮工作船追跡事件
NATO軍、ユーゴスラビア空爆開始
3月 3・15事件。共産党一斉検挙 4月
4月 第2次山東出兵 5月
5月 済南事件 6月 ユーゴ空爆停止、NATO軍進駐
6月 張作霖爆殺事件 7月
7月 8月 ウラジミール・プーチン露FSB長官、首相に就任
8月 パリ不戦条約締結 9月
9月 10月
10月 蒋介石、国民政府首席に就任 11月
11月 ★米大統領選、共和党のハーバート・フーバーが当選 12月 エリツイン露大統領が突如辞任、プーチン首相が大統領代行に就任
12月 2000(平成12)年 1月
1929(昭和4)年 1月 2月
2月 3月 ロシア大統領選、プーチン当選(在任〜2008、5)
3月 フーバー米大統領就任(在任〜1933、3) 4月


(自

党)

森喜郎内閣成立(第85代首相)
4月 5月
5月 6月 史上初の南北(韓国・金大中、北朝鮮・金正日)首脳会談
6月 7月 第2次森内閣成立(第86代首相)
沖縄サミット開催
7月



(民

党)

★浜口雄幸内閣成立(第27代首相) 8月
8月 ドイツの第1次大戦賠償計画のヤング案発表 9月
9月 10月 鳥取県西部地震
10月 ★ニューヨーク株式市場大暴落、世界大恐慌はじまる 11月 ★米大統領選、共和党のブッシュ(子)当選
11月 12月
12月 2001(平成13)年 1月 ブッシュ(子)米大統領就任(在任〜2009、1)
1930(昭和5)年 1月 日本、金解禁を実施 2月
2月 3月
3月 4月 芸予地震
4月 ロンドン海軍軍縮条約調印 5月




(自

党)
★小泉純一郎内閣成立(第87代首相)
5月 6月
6月 7月
7月 8月
8月 9月 ★米同時多発テロ(9・11事件)
以下、表4-11に続く
 基準点(1918年11月11日=1989年12月3日)以降の歴史を本格的に辿る前に、まずは基準点以前の歴史をざっと振り返っておきたい。

▼大戦とバブル勃興
 バブル崩壊の歴史を知るには、当然バブル勃興の原因まで溯らなければならない。
 1910年代後半の日本のバブルは、第1次世界大戦と密接に関係していた。
 1914(大正3)年7月28日、第1次世界大戦が勃発した。交戦国の指導者たちは、この戦争は短期決戦で終わる(終わらせる)と楽観的に考えていたようだ。ところが戦争は当初の予想を遥かに越え、4年4か月も続く総力戦となった。
 開戦当初の日本経済は、主戦場のヨーロッパにおいて国際貿易が停止状態になったため、影響を受けて混乱した(有沢広己監修『昭和経済史 上』日経文庫、1994、14頁、または塩田潮『バブル興亡史』日経ビジネス人文庫、2001、68頁)。しかし当初の混乱が収まってくると、交戦国や、開戦当初は中立国だったアメリカへの輸出が増加して、活況を呈するようになってきた。
 当時、日本の株価の主要な指標となっていたのは東株(株式会社東京株式取引所)である。東株の先物相場は、開戦直前の1914年7月には128円前後で推移していたが、開戦直後の8月には103円90銭まで下落した(『バブル興亡史』69頁)。ところが開戦から1年4か月が過ぎた1915(大正4)年12月4日、東京株式市場が大暴騰した。東株の先物相場は309円90銭まで急騰した。1年4か月で3倍になったのである。
 一般的にはこの時点から、“大戦ブーム”あるいは“大戦景気”と呼ばれる第1次世界大戦における日本のバブルが始まったとされている。
 海外への輸出が激増したため、明治維新からずっと輸入超過だった日本の経常収支は、初めて黒字に転換したという(玉置紀夫『日本金融史』有斐閣、1994、131頁、鯖田豊之『金が語る20世紀』中公新書、1999、112頁、『バブル興亡史』77-78頁)。
表1-6    第1次世界大戦前後の東株(株式会社東京株式取引所)の先物相場の推移
塩田潮『バブル興亡史』(日経ビジネス人文庫、2001)69-70、86-87、110-3、133-5、140頁、林どりあん『歴史が教える相場の道理』(日経ビジネス人文庫、2001)、34、129-130、167-170頁より作成
月日 東株(株式会社東京株式取引所)の先物相場の推移 その他特記事項
1914(大正3)年 7月 128円前後
7月28日 第1次世界大戦開戦
8月 103円90銭まで下落
1915(大正4)年 1月(大発会) 160円30銭
12月4日 東京株式市場大暴騰、大戦ブームはじまる
12月 309円90銭まで急騰
1916(大正5)年 1月 325円60銭
2月 334円60銭
10月 400円突破
12月4日 480円90銭 最高値
12月13日 ドイツ、連合国との和平交渉の意思をアメリカに伝達との報道により株価暴落
暮れ 260円
1917(大正6)年 4月 208円
10月 148円
1918(大正7)年 6月 142円
11月11日 第1次世界大戦終結
1919(大正8)年 8月 275円80銭
9月 442円60銭 1ヵ月間の上昇率60パーセント
1920(大正9)年 3月1日 549円 史上最高値
3月15日 399円まで暴落
3月16日・17日 混乱収拾のため東京・大阪の株式市場は休場
4月7日 暴落 増田ビルブローカー銀行の経営破綻が発覚したため。4月12日まで休場
4月13・14の両日 取引再開、またもや暴落 5月15日まで長期休場に
9月 100円50銭
 一方、1980年代後半に起きた日本のバブル景気は、アメリカの勝利という結果で終わりつつあった米ソ冷戦と間接的に関係していた。
 バブルが始まったきっかけは、一般的には、1985(昭和60)年9月22日〜23日に米ニューヨークのプラザホテルで開催されたG5(先進5か国蔵相会議)で、ドル高是正のために為替市場への国際協調介入が話し合われた、いわゆるプラザ合意が挙げられるだろう。
 日本経済新聞社編『検証バブル 犯意なき過ち』(日経ビジネス人文庫、2001)には、

アメリカの貿易赤字を削減するために日本や西ドイツの黒字減らしを進める方策として、外国為替相場を人為的にドル安に誘導しようというのがプラザ合意の目的だった」(48頁)

 とある。
 プラザ合意の結果、日銀は1986年から87年にかけて合計5度公定歩合の引き下げを行ったため(表1-7を参照)、余剰となったカネが土地と株式に流れ込み、地価と株価の急騰を起こしたと言うのが、一般的な説となっている。
 ちなみに、プラザ合意の翌日・1985年9月24日の円ドル相場は、1ドル=230円90銭。日経平均株価の終値は12755円60銭だった。
 安達智彦氏は、『株価の読み方』(ちくま新書、1997)196頁において、1986年1月21日の日経平均株価の終値(12881円50銭)をバブルの起点としている。
表1-7   日経平均株価の推移と、関連の動き(1983〜1989年)
月日 日経平均株価(全て終値)、その他特記事項
1983(昭和58)年 10月22日 日銀、公定歩合を0.5%利下げし5.0%に
1984(昭和59)年 1月9日 日経平均、終値で史上初の1万円台突入
1985(昭和60)年 9月23日 ニューヨークにてG5開催、ドル高是正のため為替市場への協調介入強化で合意(プラザ合意)。
翌24日の日経平均終値、12755円60銭。円相場は1ドル=230円90銭
1986(昭和61)年 1月30日 日銀、公定歩合を0.5%利下げし4.5%に(利下げは1983年10月22日以来2年3か月ぶり)
3月10日 日銀、公定歩合を0.5%利下げし4.0%に
3月22日 日経平均、終値で史上初の1万5千円台突入
4月21日 日銀、公定歩合を0.5%利下げし3.5%に
11月1日 日銀、公定歩合を0.5%利下げし3.0%に
1987(昭和62)年 1月30日 日経平均、終値で史上初の2万円台突入
2月9日 NTT(日本電信電話会社)株、東証に上場
2月23日 日銀、公定歩合を0.5%利下げし2.5%に
6月3日 日経平均、終値で史上初の2万5千円台突入
10月14日 日経平均終値、26646円43銭(史上最高値、ブラック・マンデー前の最高値)
10月19日 ニューヨーク株式市場大暴落(ブラック・マンデー)
10月20日 日経平均3836円48銭安(下落率▼14.9%で史上最大)
11月11日 日経平均終値、21036円76銭(ブラック・マンデー後の底値)
1988(昭和63)年 4月7日 日経平均終値、26769円22銭(史上最高値、1987年10月14日の最高値を突破)
12月7日 日経平均、終値で史上初の3万円台突入
1989(昭和64・平成元)年 1月7日 昭和天皇崩御
5月31日 日銀、公定歩合を0.75%利上げし3.25%に(利上げ政策に転換。利上げは1980年3月19日以来9年3ヶ月ぶり)
9月16日 日経平均、終値で史上初の3万5千円台突入
10月11日 日銀、公定歩合を0.5%利上げし3.75%に
12月3日 米ソ首脳(ブッシュ・ゴルバチョフ)、地中海のマルタ島で会談。冷戦の終結を宣言
12月17日 日銀総裁に三重野康が就任
12月25日 日銀、公定歩合を0.5%利上げし4.25%に
12月29日 大納会。終値38915円87銭(史上最高値)。円相場は1ドル=143円40銭
以下、表1-8に続く
 第1次世界大戦と米ソ冷戦において、どちらも日本は直接の戦火の影響を受けなかった。どちらも主戦場はドイツを中心としたヨーロッパであり、日本を含むアジア地域はおまけ扱いだったからである。

 日本の1980年代後半のバブル期に起きた現象、すなわち円高の進展(特にプラザ合意以降)、製造業の海外への移転、内需拡大政策、地価の高騰と地上げ屋の暗躍などの説明は、三橋規宏・内田茂男『昭和経済史 下』(日経文庫、1994)日本経済新聞社編『検証バブル 犯意なき過ち』(日経ビジネス人文庫、2001)塩田潮『大国日本の幻』(講談社、2002)などに詳しい。
▼大戦終結とバブル崩壊
 東株は、1916年12月に最高値480円を付けた後は下落し、第1次世界大戦終戦直前の1918(大正7)年6月には142円を付けた。
 1918年11月11日、第1次世界大戦は終結した。
 しかし、日本の大戦ブームはすぐには終わらなかった。戦争が終わっても、ヨーロッパ諸国の産業と経済が即座に復興出来たわけではないため、日本の輸出の好況は続いていたのである(『昭和経済史 上』18頁、『バブル興亡史』133頁)。このため、大戦終結と共に株価はまたもや高騰し、戦前の最高値480円すら上回り、大戦終結から1年4か月が経過した1920(大正9)年3月1日には最高値の549円を付けたのである(『バブル興亡史』109・133頁)。
 しかし2週間後の3月15日、東京株式市場は暴落し(『日本金融史』164頁、『バブル興亡史』133頁)、東株は399円まで下落した。混乱収拾のため、翌16日・17日、東京と大阪の株式市場は休場となった。
 4月7日には、増田ビルブローカー銀行の経営破綻が発覚したため、東京・大阪の株式市場は暴落した。12日まで休場となった後、13・14の両日取引が再開されたのだが、またもや暴落したため、結局市場は5月15日までの長期休場となった。
 さしもの大戦ブームも終焉を迎え、戦後恐慌が始まったのである。
 一方、1989(平成元)年12月の冷戦終結前後の日本と世界の状況を概観してみたい。
 日本の政界では、リクルート事件の影響が未だに尾を引いていた。首相は海部俊樹だった。
 世界では、ソ連の改革(ペレストロイカ)を背景に、東欧諸国が次々に民主化していた。11月9日にはベルリンの壁が崩壊している。12月当時はルーマニアで民主化革命が進行中だった。
 そして12月3日、米ソ首脳(ブッシュ・ゴルバチョフ)が地中海のマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言したのである。
 その1か月後の12月29日、東京証券取引所の1年の取引の最終日である大納会において、日経平均株価の終値は史上最高値の38915円87銭に到達したのである。ちなみに同日の円相場は1ドル=143円40銭だった。
 
 株価の下落は、最高値達成の2か月足らず後の1990年2月中旬から本格的に始まった。
表1-8  日経平均株価の推移と、関連の動き(1990〜1992年)
月日 日経平均株価(全て終値)、その他特記事項
1989(平成元)年 12月3日 米ソ首脳(ブッシュ・ゴルバチョフ)、地中海のマルタ島で会談。冷戦の終結を宣言
12月29日 大納会。終値38915円87銭(史上最高値)。円相場は1ドル=143円40銭
1990(平成2)年 2月21日 ▼1161円19銭(下落率▼3.147%)
2月23日 終値で3万5千円台割れ
2月26日 ▼1569円10銭(下落率▼4.497%)
3月19日 ▼1353円20銭(下落率▼4.148%)
3月20日 日銀、公定歩合を1.0%利上げし5.25%に
3月22日 ▼1836円。終値で3万円台割れ
4月1日 不動産関連融資の総量規制実施
4月2日 ▼1978円38銭(下落率▼6.598%)
8月23日 ▼1473円28銭。終値で2万5千円台割れ
8月30日 日銀、公定歩合を0.75%利上げし6.0%に
10月1日 終値、20221円86銭(下落の最安値)
1991(平成3)年 3月18日 終値、27146円91銭(反発の最高値)
7月1日 日銀、公定歩合を0.5%利下げし5.5%に(利下げ政策に転換)
8月19日 ▼1357円61銭(下落率▼5.950%。ソ連のクーデターショ ック)
11月14日 日銀、公定歩合を0.5%利下げし5.0%に
12月30日 日銀、公定歩合を0.5%利下げし4.5%に
1992(平成4)年 1月4日 総量規制解除
3月16日 終値で2万円台割れ
4月1日 日銀、公定歩合を0.75%利下げし3.75%に
7月27日 日銀、公定歩合を0.75%利下げし3.25%に
8月18日 日経平均終値、14309円41銭(バブル崩壊後1番底。史上最高値・1989年12月29日からの下落率63.2%)
以下、表3-9に続く
 高尾義一『平成金融不況』(中公新書、1994)7- 12頁によると、日経平均の下落の過程においては、3波が確認されるという。
 第1波は1990年1月4日(大発会)から4月5日にかけてである。僅か3か月間で、日経平均は38915円87銭から28249円06銭(4月5日終値)まで、約30%も下落してしまった。
 第2波は1990年8月末から10月1日にかけてである。8月30日、日銀は利上げ政策に転換して以降5度目となる公定歩合引上げを行った。これが致命的打撃となり、株価は20221円86銭(10月1日終値)まで下落した。
 第3波は、1991年秋から、1992年8月18日の日経平均の1番底までとしている。


 1990〜92年の日本のバブル崩壊においては、株価は小刻みに下落していったので、1929年10月24日のニューヨーク市場暴落“ブラック・チューズデー”や、1987年10月19日の同じく“ブラック・マンデー”のような、後世にまで名を残すような象徴的な大暴落は起こらなかった。
 エドワード・チャンセラー、山岡洋一・訳『バブルの歴史 チューリップ恐慌からインターネット投機へ』(日経BP社、2000)にも、


「日本株は突如として暴落したわけではない。1929年と1987年の2回にわたる10月の大暴落のような状況にはならなかった。大暴落ではなく、クリスマス・パーティに使われて放置された風船のように、徐々に空気が抜けていった」(493-494頁)


とある。
 経済企画庁(当時。現在は内閣府)の発表する景気動向指数の景気基準日付も、第11循環の上昇局面は1991(平成3)年2月で“山”を迎え、以降景気は下降局面に入ったことが明らかになった。
 日銀はようやく利下げ政策に転換し、1991年7月から公定歩合の引き下げを開始したが、時すでに遅しの感があった。
 1992(平成4)年8月18日、日経平均は終値で14309円41銭を付け、ひとまず下げ止まった。史上最高値からの下落率は63.2%に及んだ。
 しかし国民の大多数は、当初事態をさほど深刻には考えていなかった。株価の下落は自分たちには無関係で、しばらくすれば景気はまた回復するだろうと楽観視していたのだ。その期待が幻想だったのだとようやく自分たちの身につまされるのは、1997年に“平成金融危機”が起こった後のことになる(“平成金融危機については3で後述する)。

 過去の日経平均の推移が気になった皆様は、日本経済新聞社の公式サイトである日経平均プロフィールも御覧頂きたい。1949年5月16日に東京証券取引所が戦後初めて取引を再開して以降、現在に至るまでの日経平均株価の終値を検索出来る。
  また、下落幅と下落率、もしくは上昇幅と上昇率に興味がある皆様は、同じ「日経平均プロフィール」の上昇記録」または「下落記録」を御覧頂きたい。

▼ドイツとソ連ー“挑戦国”の体制崩壊
 “挑戦国”として敗北したドイツとソ連について、それぞれの終戦直後の歴史を概観したい。
表1-9   第1次大戦終結後のドイツ
1918(大正7)年 11月9日 ドイツ革命起こる。皇帝ウイルヘルム2世退位、オランダに亡命
11月11日 連合国と休戦協定締結。第1次世界大戦終戦
1919(大正8)年 1月18日 パリ講和会議開催
2月11日 ドイツ国民会議、大統領にエーベルトを選出
6月28日 ベルサイユ講和条約締結
8月11日 ワイマール憲法成立
表1-10   冷戦終結後のソビエト連邦
1989(平成元)年 12月3日 米ソ首脳(ブッシュ・ゴルバチョフ)、マルタ会談。冷戦終結宣言
1990(平成2)年 2〜3月 バルト3国、相次いでソ連からの独立を表明
3月15日 ソ連の初代大統領にゴルバチョフ選出
10月3日 東西ドイツ統一
11月15日 ゴルバチョフ、ノーベル平和賞受賞
1991(平成3)年 6月12日 ロシア共和国初の大統領にボリス・エリツィンが当選
8月19日 クーデター発生、ゴルバチョフ軟禁される(〜21日)
8月24日 ゴルバチョフ、書記長辞任を表明
12月25日 ゴルバチョフ、大統領辞任
12月30日 ソビエト連邦を構成する11か国、CIS(独立国家共同体)会議を開催。ソビエト連邦解体
 双方を比較してみると、敗戦国としてのドイツとソ連には、大きな違いが、少なくとも3点あるということが分かる。
 第1は、ドイツは実際にイギリス、アメリカを相手に第1次大戦を戦って国家体制(第2帝政)が崩壊したのに対して、ソ連はアメリカと第3次大戦を戦うことなく(もちろん米ソの代理戦争は朝鮮、ベトナム、アフガンなど何度も起こったが)、結果的に1985年に改革指導者ゴルバチョフが登場し、国家体制の崩壊と米ソ冷戦の終結にまで一気に雪崩込んでいった点である。
 双方の差は違いはどこから生まれたのか。
 なぜソ連はアメリカと戦端を開かなかったのかという問いには、兵頭二十八が『日本の防衛力再考』(銀河出版、1995)で答えを出してくれている。いわく、


「ソ連が経済的不振から1980年代に大規模な対外戦争を開始するがごとき予測を喧伝する個人や機関が目についた。これも、自国内で石油の採れる国家は経済的後退が始まっても軍事力のジリ貧には至るものではなく、せいぜい現水準での停止を意味するのみであること、よってヤケを起こして戦争に踏み切る必要にはほど遠いことを弁えなかった経済学者や軍事評論家が、存外に多いことを物語っている」(224頁)


 アメリカ、ソ連ーロシア、中国、そしてテロ国家とされている中東のイラク、イラン、リビアは、いずれも産油国である。石油資源は中東、ロシア、アメリカといった特定国に偏在しているのである。
 一方、日本、ドイツ、イタリアは、自国では極少量しか石油は産出せず、到底自給自足できない。
 ではなぜ石油産出国は破滅的な事態に至らないのかというと、兵頭二十八氏は、


「産油国には取引先はいくらでもある。普通の商品はどこからでも買える」『「新しい戦争」を日本はどう生き抜くか』ちくま新書、2001、207頁)
「明日の存続が危ぶまれる貿易相手に、不換紙幣や手形でモノを売ってくれる外国など存在せんということです。だからgoldやoilを持っている国は、しぶとい」『「戦争と経済」のカラクリがわかる本』(PHP研究所、2003、87頁)


 と説明してくれている。
 わたくし(管理人)の言葉で言い換えるなら、石油は何物にも代替できない、文明に不可欠なエネルギー源である。日々の生活は石油がなければ成り立たない(『「新しい戦争」を日本はどう生き抜くか』211・214頁、『日本の防衛力再考』226頁。しかし『「新しい戦争」を日本はどう生き抜くか』189頁では、優先順位は“優秀な航空機>原油>その他”とされている)。
 石油は、日本の主要輸出品である自動車やコンピューターなどより格が上の戦略商品である。そのため、産油国の経済が疲弊した場合でも、自国に埋蔵されている石油を担保にすれば、資本力を持つ国家や企業が投資してくれる。そのため産油国に決定的なダメージは起こりにくいのだろう。現に産油国であるイラクは、1996年から2003年までの7年間、国連による制限下でも石油34億バレルを輸出し、650億ドルの売上を得たとされている(『兵頭二十八ファンサイト 半公式』内「決心変更サレリーそして、未完のルポ」より)。

 第2は、講和条約の有無である。
 第1次大戦にはベルサイユ講和条約が、第2次大戦にはサンフランシスコ講和条約があり、また戦犯を裁いたニュールンベルク裁判東京裁判などもあった。
 しかし冷戦終結後のソ連と西側の間には講和条約は存在していない。もとより戦犯裁判など実施されてはいない。その理由は、ソ連はドイツや日本のように、戦勝国によって国土が占領されなかったためであろう(この点については後述する)。
 第1次大戦後、連合国はドイツに1320億金マルクという莫大な賠償金の支払い義務を課した(鯖田豊之『金が語る20世紀』149頁)。これがドイツ経済を破綻させ、ヒトラー登場の遠因となったのはよく知られているところである。この経緯を欧米は反省したのか、第2次大戦敗戦国の日本やドイツ、また冷戦敗戦国のソ連に賠償金要求はなかった(最も、戦勝国となったソ連や中国は、満州や朝鮮、ドイツから、現物の機械などを本国に強奪していったが。鯖田豊之『金が語る20世紀』245頁)。

 第3に、ドイツの場合は、大戦が終結してから新しい国家体制が確立されるまで半年しか掛からなかった。一方ソ連の場合は、冷戦終結から連邦の解体まで2年を要した。これはなぜか。
 これも第1の問いの答えと同じになる。ソ連はアメリカと実際に第3次大戦を戦って敗北したわけではない。なので同じ敗戦でも、ソ連国民の衝撃の度合いは、ドイツのそれよりも弱かったのだろう。つまりソ連国民に敗戦の実感がないので、急激な内政の改革要求の意思が小さく、体制変革に時間が掛かったのだろう。

 最も、ソ連にも“西側と戦わずして国が消滅してゆくのは座視出来ない”と考えていた軍人はいたらしい(秋野豊『ゴルバチョフの2500日』講談社現代新書、1992、200頁)。そんな軍の不満を、ゴルバチョフらソ連共産党指導部はよくぞ押さえ込めたものだと思う(クーデター自体は1991年8月に、3日天下ながら発生しているが)。
 これは、ソ連とドイツではなく、ソ連と戦前の日本を比較すれば、双方の違いを理解して頂ける方も多いだろう。戦前の日本政府や政党政治家は陸軍の不満を制御できず、5・15事件2・26事件といったクーデターが続発し、遂には対米戦争に至ったのだから。
 戦前の日本は対米戦争の敗北というハードランディングになったが、冷戦終結時のソ連はソフトランディングに成功したと言える。
 この日本とソ連の違いの理由にも、兵頭氏が答えを出してくれている。ソ連では政府の指揮下に秘密警察KGBがあり、軍に対するチェック役となっていたため、反乱やクーデターが起こらなかったのだと言う(『日本の機械化兵器』銀河出版、1995、172-174頁、『ヤーボー丼』銀河出版、1997、18頁、『「日本有事」って何だ』PHP研究所、2000、98-99頁、165頁、『日本有事』PHP研究所、2006、120-122頁)。
 さらに、兵頭の近年の研究によれば、軍のクーデターと共謀罪の関係もあるようである。
 別宮暖郎・兵頭二十八『東京裁判の謎を解く 極東国際軍事裁判の基礎知識』(光人社、2007)には、


 「かつて米国のマフィアは、日本の暴力団のように表の世界に店を張り、民事暴力を盛んにしていたものだが、現代ではほとんど目立たず、不良債権回収を業とすることもない。これは『共謀罪』の適用による成果だった。同様に、共謀罪の弾力的運用ができるおかげで、米国や英国では共産党はまるで元気が無く、軍のクーデターの危険などは長期にわたってゼロだったのだ。
 ドイツ、フランス、イタリア、日本……には、組織暴力団もあれば暴力革命党もある。これらの国には共謀罪がなかった」
(273‐274頁)


 とある。
 一方、ソ連と、第1次大戦後のドイツには、共通点もある。「第2の場合」で前述したように、戦勝国によって国土が占領されていない点である。
 第2次大戦後のドイツにヒトラーが台頭し、第2次大戦を引き起こして敗北した結果、ドイツは戦勝国の米英仏ソによって占領され、国土は東西に分割されてしまった(これについては6で後述する)。これはやはり、第1次大戦後のドイツを占領しておけばヒトラーの登場を防げただろうか?という、第2次大戦の戦訓なのかも知れない。 
▼ドイツとソ連ー“敗戦国”の無残
 第1次大戦に敗北したドイツを待ち受けていた次の困難が、ハイパーインフレーションだった。
 浅井隆『2003年、日本国破産〔対策編〕』(第二海援隊、2001)20-21頁によると、ドル=マルクの為替レートは、第1次大戦前は1ドル=4.2マルクだったのが、ベルサイユ条約受諾直後の1919年7月には1ドル=14マルクとなった。4年間続いた大戦で4倍のマルク安となったわけで、インフレの進行もこれとほぼ同率の水準となった。3年後の1922年1月には1ドル=192マルクにまで下落していた。
 1923年1月11日、フランス・ベルギーの両軍は、両国へのドイツの賠償が不履行であるという理由で、ドイツ工業地帯の心臓部であるルール地方を占領した。これでマルクの暴落は決定的となり、11月15日には1ドル=4兆2000億マルクという底値を付けたのである。
 マルクの底値の7日前の11月8日にはミュンヘン一揆が起きている。首謀者であるナチ党党首アドルフ・ヒトラーが逮捕されたのである。
 一方、ドイツと同じ敗戦国となったソ連ーロシアは、どのような状況だったのだろうか。
 小川和男『ソ連解体後』(岩波新書、1993)は、インフレーションの進行について、


「公定価格と自由市場価格の違いには大きな問題があり、1990年末までは、後者は通常、前者の3〜5倍が相場であった。(中略)ところが、ゴルハチョフ政権が(中略)1991年4月に敢行した公定小売物価の全面的引上げ(値上げ率2〜3倍)の後、安定した関係は崩れ、インフレが一挙に顕在化した。(中略)ガイダル副首相は(中略)1992年1月初めより、価格の全面的自由化というショック療法を実行した。この結果、小売物価は1992年の1年間に20倍と高騰、小売販売高は42%減と著しく減少した」(4-5頁)


 と述べている。
 また通貨の暴落については、


「市場経済への移行が決定され、議論が紛糾した下で、人工的とはいえ安定していたルーブルの実勢相場は大きく崩れ、大幅に下落し始めた。とりわけ、1991年以降における下落は劇的であり、4月の時点では1米ドル=27.6ルーブルであった為替レートは、同年末には90ルーブルにまで下がった。(中略)ルーブル相場はさらに下がり、1992年1月中旬には、一時1米ドル=230ルーブルとなった。その後若干反転し、110〜160ルーブルと回復したが、同年秋には再び大幅に下がり、(中略)年末にはついに450ルーブルとなった。1ルーブル=30銭以下に下がったわけで、まさに暴落である」(98-99頁)


 と述べている。
 中澤考之『資本主義ロシア』(岩波新書、1994)には、


「ルーブルの下落は94年になっても続いた。1月6日のルーブルの対ドル相場は1259ルーブルだった。2月10日には1568ルーブル、その後一貫して下げ続け、7月6日には遂に2000ルーブルの大台を突破し、2008ルーブルを付けた。9月22日には前日比125ルーブルも大きく下げて、2460ルーブルと1日で一気に5%もの急落、さらに10月21日には前日比845ルーブル安、27.4%という過去最大の下げ幅を記録する大暴落で、3926ルーブルにまで落ち込んだ。中央銀行の大規模介入で13日には2994ルーブルにまで戻したが、このルーブル買い支えのために、8月1日の時点で49億ドルあった外貨準備高は18億ドルにまで急減した。この『ブラック・チューズデー』騒ぎで、食料品を中心に消費財価格は軒並み急騰、一般庶民の台所を直撃した」(24頁)
「92年には年間インフレ率2600%というハイパーインフレを経験した。1年間に物価がざっと26倍も上がったことになる。93年は1000%と落ちたが、94年は1月の月間インフレ率をピークに徐々に下降をたどった。6月4.8%、7月5.1%、8月は4.0%と過去3年で最低を記録した。しかし、9月には主に鉄道運賃の引き上げが響いて7.7%と再び上昇、10月には『ブラック・チューズデー』(ルーブル大暴落)に伴う輸入品の価格上昇などで15.1%と、再び2ケタ台に戻った」(48頁)


 とある。
 飯島一考『新生ロシアの素顔』(毎日新聞社、1997)には、


「物価は92年1年間に26倍(インフレ率2600%)もアップした。これに対し、賃金は9倍程度しか引き上げられず、実質賃金は大きく目減りしたのである。その後、インフレは沈静化していくが、それでも93年は839%、94年215%、95年131%、96年でようやく22%に落ち着いたのである」(99頁)
「インフレが進むにつれて、ドルとルーブル通貨との交換レートが、毎日のように大きく変わった。価格自由化が始まった92年1月2日には、1ドル=150ルーブルだったが、年末には414ルーブルに。さらに3年後の95年1月3日には、4115ルーブルとなり、3年間にルーブルの価値がざっと30分の1に下がったのである」
(100頁)


とある。
 総論として、小川和男『ロシア経済事情』(岩波新書、1998)には、


「ソ連解体直後の1992〜93年にロシアで起こった生産の劇的減少については、急激な市場化を狙ったショック療法の失敗による経済システムの大混乱、価格の急激に過ぎた全面的自由化が引き起こした超高率のハイパースタグネーション(ハイパーインフレーションと生産の大幅な落ち込み)の発生、旧ソ連時代の有機的産業連関の崩壊などに要因の大半を見ることができる」(94頁)


とある。
 しかし、ドイツと比較すれば、ソ連―ロシアは、まだマシだったと言えるのではなかろうか。その理由が“ソ連―ロシアは産油国だからではないか”という管理人の推測は、前述した通りである。
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