歴史はなぜ繰り返すのか 対称年表と近代70年サイクル・No.3
開設 2006(平成18)年11月4日
(この間省略)
更新 2009(平成21)年12月26日
更新 2010(平成22)年3月15日
更新 2010(平成22)年9月26・30日
更新 2010(平成22)年10月2・31日
更新 2011(平成23)年3月13・15・27日
更新 2011(平成23)年4月2・10・17日
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最新更新 2012(平成24)年1月3日
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対称年表と近代70年サイクルNo.3 目次
第1部 対称年表・1919〜1935と1989〜2007
▼続発する大地震(1922年〜1933年=1993年〜2005年)
▼オウムと破防法(1925年=1997年)
▼“政治の季節”から“経済の季節”へ
▼大正から昭和へ―天皇崩御と恐慌の関係(1926年)
▼金融恐慌と平成金融危機(1927年=1997年〜1998年)
▼金融機関の再編(1923年〜1933年=1999年〜2003年)
▼大陸との緊張増大(1927年〜1928年=1998年〜2002年)
歴史はなぜ繰り返すのか 対称年表と近代70年サイクル・No.2に戻る
▼続発する大地震(1922年〜1933年=1993年〜2005年)
歴史のサイクルと地震は、特に地震国である日本において、大きく関連しているようである。
浅井隆『30年不況』(第二海援隊、1998)230頁によると、1853年の黒船来航から1867年の明治維新までの幕末の動乱期の間、下の表のように、大地震が頻発しているのである。
表3-1 ペリーの黒船来航付近から明治維新までの日本の大地震 年 月日 地震 その他の特記事項 1853(嘉永6)年 3月11日
(旧暦2月2日)嘉永小田原地震(M6.7。死者24名) 7月8日
(旧暦6月3日)ペリー率いるアメリカ艦隊、浦賀に来航 1854(嘉永7・安政元)年 2月13日
(旧暦1月16日)ペリー艦隊、再び来航 3月31日
(旧暦3月3日)日米和親条約締結 7月9日
(旧暦6月15日)伊賀上野地震(M7.25。死者1100名余) 12月23日
(旧暦11月4日)安政東海地震(M8.4。死者2000〜3000名) 12月24日
(旧暦11月5日)安政南海地震(M8.4。死者3000名) 1855(安政2)年 11月11日
(旧暦10月2日)安政江戸地震(M6.9。死者1万人前後) 1856(安政3)年 8月23日
(旧暦不明)北海道南部・三陸に大津波 1858(安政5)年 4月9日
(旧暦2月26日)飛騨北部にて地震(死者203名) 1860(安政7)年 3月24日
(旧暦3月3日)桜田門外の変(大老井伊直弼暗殺) 1867(慶応3)年 11月9日
(旧暦10月14日)15代将軍徳川慶喜、大政奉還
明治維新から第1次大戦終結までの約40年間は、1891年の濃尾地震、1896年の三陸沖地震など、大地震は散発的にしか起こっていなかった。
ところが、第1次大戦終結後、1922年12月の島原地震を契機に、再び大地震が頻発するようになった。
表3-2 第1次大戦終結後の日本の大地震 年 月日 地震 1918
(大正7)年11月11日 ドイツ、連合国と休戦協定締結。第1次世界大戦終戦 3年後 第
1
期
1922年 12月8日 島原地震(M6.9。死者26名、家屋全壊200棟) 1923年 9月1日 関東大震災(M7.9。死者14万名、家屋全壊57万6千棟) 1925年 5月23日 北但馬地震(M6.8。死者428名、家屋全壊3500棟) 1927年 3月7日 北丹後地震(M7.3。死者3589名、家屋全壊11600棟) 3年9か月間の空白期間 第
2
期
1930年 11月26日 北伊豆地震(M7.2。死者271名、家屋全壊2100棟) 1931年 9月25日 西埼玉地震(M6.9。死者16名、家屋全壊200棟) 1年6か月間の空白期間 1933年 3月3日 三陸沖地震(M8.1。死者3008名、家屋全壊・流出4000棟余) 2年間の空白期間 1935年 7月11日 静岡地震(M6.4。死者9名、家屋全壊・焼失10棟) 1936年 2月21日 河内大和地震(M6.4。死者9名、家屋全壊6棟) 3年間の空白期間 1939年 5月1日 男鹿地震(M6.8。死者27名、家屋全壊・焼失480棟) 4年間の空白期間 第
3
期
1943年 9月10日 鳥取地震(M7.2。死者1083名、家屋全壊7700棟) 1年3か月間の空白期間 1944年 12月7日 東南海地震(M7.9。死者998名、家屋全壊20000棟) 1945年 1月13日 三河地震(M6.8。死者1961名、家屋全壊7200棟) 1年11か月間の空白期間 1946年 12月21日 南海地震(M8.0。死者1432名、家屋全壊15000棟) 1年7か月間の空白期間 1948年 6月28日 福井地震(M7.1。死者3769名、家屋全壊40000棟)
一方、第2次大戦終結から米ソ冷戦終結までの約45年間も、前周期と同じく、1964年の新潟地震、1978年の宮城県沖地震、1983年の日本海中部地震など、大地震は散発的にしか起こらなかった。特に高度経済成長中は平穏な時期が続いていた。
ところが、米ソ冷戦終結後は、1993年1月の釧路沖地震を契機に、再び大地震が頻発するようになった。
表3-3 米ソ冷戦終結後の日本の大地震(2013年1月時点) 年 月日 地震 1989年 12月3日 米ソ首脳(ブッシュ・ゴルバチョフ)、マルタ会談。冷戦終結宣言 3年後 第
1
期
1993年 1月15日 釧路沖地震(M7.8。死者2名、負傷者966名) 7月12日 北海道南西沖地震(M7.8。死者201名、行方不明者29名、負傷者323名、家屋全半壊1009棟) 1994年 10月4日 北海道東方沖地震(M7.9。死者1名、負傷者245名、家屋全半壊409棟) 12月28日 三陸はるか沖地震(M7.5。死者2名、負傷者285名) 1995年 1月17日 阪神大震災(M7.2。死者6434名、負傷者43792名、家屋全壊約104000棟) 5年間の空白期間 第
2
期
2000年 10月6日 鳥取県西部地震(M7.3。負傷者182名、家屋全半壊約3400棟) 2001年 3月24日 芸予地震(M6.4。死者2名、負傷者312名、家屋全半壊約840棟) 2年間の空白期間 2003年 7月26日 宮城県北部の連続3回地震(最大M7.0。負傷者107名) 9月26日 十勝沖地震(M8.0。行方不明2名、負傷者842名、家屋全壊60棟) 2004年 10月23日 新潟県中越地震(M6.8。死者51名、負傷者4794名、家屋全壊・大規模半壊約16000棟) 2005年 3月20日 福岡県西方沖地震(M7.0。死者1名、負傷者1080名、家屋全半壊377棟) 2年間の空白期間 2007年 3月25日 能登半島地震(M6.9。死者1名、負傷者218名、家屋全壊59棟、半壊186棟) 7月16日 新潟県中越沖地震(M6.8。死者11名、負傷者1089名、家屋全壊342棟、半壊97棟) 2008年 6月14日 岩手・宮城内陸地震(M7.2。死者13名、行方不明者10名、負傷者448名、家屋全壊23棟、半壊65棟、一部損壊1090棟 ) 7月24日 岩手県沿岸北部の地震(M6.8。負傷者126名、家屋全半壊244棟) 2009年 8月11日 駿河湾を震源とする地震(M6.5。死者1名、負傷者122名、家屋一部損壊4926棟 ) 1年7か月間の空白期間 2011年 3月11日 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)(M9.0。死者・行方不明者約2万名) 3月12日 長野県北部で地震 (M6.7。負傷者46名) 3月15日 静岡県東部で地震 (M6.4。負傷者50名)
こうして双方を比較してみれば一目瞭然だが、表3-1の戦前・戦中・終戦直後の日本で起きた大規模地震は、大ざっぱに言えば3期に分けられるようである。すなわち1922〜27年の第1期、1930〜33年の第2期、1943〜48年の第3期である。
これを現代に当てはめてみれば、第1期が1993〜95年、第2期が2000〜2008年となっている。第3期は2011年、東日本大震災によって再開されたのだろうか。
これら大地震のうち、特に日本に大きな影響をもたらしたのが、言うまでもなく関東・関西の両大震災である。
関東大震災発生後、政府は日銀に命じて、1億円を限度とする損失補償を行う“震災手形”を発行した。
塩田潮『バブル興亡史』(日経ビジネス人文庫、2001)には、
『井上(管理人註、井上準之助蔵相)は(中略)モラトリアムを廃止するとともに、銀行を救済するために手形再割引制度を設けることを決めた。「震災手形」の登場である。
だが、この震災手形は金融界の癌となって、後々まで日本経済を苦しめた。昭和二、三年の金融恐慌の火種となって燻り続けることになる』(198頁)
とある。
★震災手形の説明…『日本金融史』175頁、『昭和経済史 上』(日本経済新聞社、1994)25・39頁、『沈没ニッポン再浮上のための最後の方法』133頁にもあり
この震災手形の発行が1927年の金融恐慌の萌芽の1つとなったのだが、一方阪神大震災は直接恐慌を引き起こす事態までには至っておらず、1997〜98年の平成金融危機と直接の接点はない。これはなぜか。野口武彦『安政江戸地震』(ちくま新書、1997)11頁でも述べられているが、関東と関西では、経済の規模が格段に違うためだ、という答えが正解だろう。
参考文献のなかで、地震と近代70年サイクルとの関係について言及している部分を挙げて、発行年順に並べていくと、以下の通りになる。
石橋克彦『大地動乱の時代』(岩波新書、1994)には、
「簡単な計算をすると、(管理人註、小田原地震の)くり返しの平均年数は約73年でバラツキが非常に小さく(標準偏差0.9年)、地震や火山噴火といった現象としては驚くほど規則正しいことがわかる」(176-177頁)
とある。
浅井隆『取り付け騒ぎマニュアル』(総合法令、1996)には、
「60年から70年に1度のサイクルで、歴史に大きな傷を残すような出来事が起こり、それらの出来事には必ず大地震が絡んでいるのです」(77頁)
とある。
野口武彦『安政江戸地震』(ちくま新書、1997)には、
「巨大災害がいつ起きるかは決定的に重要である。この『いつ』は暦表の上で何年にあたるかではない。一政治権力の生態史サイクル上いかなる時期にあるかである。早い話が、1703年の元録地震では幕府はびくともしなかったが、1855年の安政地震ではがたがたになった。(中略)巨大災害は、一国の政治経済、社会生活、世相風俗に潜在していた所内因を急激に外化し、顕在化させ、加速熟成する」(11-12頁)
とある。
中西輝政『なぜ国家は衰亡するのか』(PHP新書、1998)には、
「バブルによる巨大な富の蓄積が高じてお陰参りがあり、その後に天変地異が発生、そして改革というパターンである。これが申し合わせたように繰り返されたのが江戸という時代であった。(中略)同じように、バブルがあって大地震が起こるというパターンは、近現代の日本で戦前と戦後、つまり大正時代と平成時代にも繰り返された」(174頁)
とある。
溝上恵『徹底検証 東京直下大地震』(小学館文庫、2001)には、
「幕末のこうした巨大地震の連続が、当時の幕藩体制の崩壊を加速した面もある。(中略)こうして見てみると、大きな災害をともなう地震は、なにやら日本という国の“曲がり角”に顔を覗かせるような気さえする」(212頁)
とある。
伊藤和明『地震と噴火の日本史』(岩波新書、2002)では、94-101頁で嘉永小田原地震から安政南海地震が、190頁で江戸地震が述べられている。
しかし、近代70年サイクル(No.6で後述する)と、関東地震の70年サイクルの双方には、直接の関連性はなさそうである。
さらに、このウエブサイトでは、
『「南関東では70年に1回大地震が発生する。関東大震災が1923年だから、次は1990年頃・・・」こんな説を聞いたことがある方も多いと思います。これは正確には「南関東大地震69年周説」といい、1960年代頃までは国会でも取り上げられている権威ある学説です。
その後、過去の地震に関する研究が進むにつれ、タイプの異なる地震を混同して扱うのはおかしいことが明らかになり、現在では学術的には却下された格好ですが、分かりやすくマスコミにも大々的に取り上げられたので、今でも信じている人が少なくないようです。また、最近ではなぜか小田原70年周期説と姿を変えて生き残っているようです』
と述べられてしまっている。
というわけで、地震のサイクルについては了解していただけたかと思う。では、その他の天変地異、例えば火山の噴火はどうなのだろうか。
表3-4 日本の大地震と火山噴火の関連(表3-3との合成) ●冷戦後 年 月日 地震と火山噴火 1989年 7月 静岡県・伊東市沖の海底噴火 12月3日 米ソ首脳(ブッシュ・ゴルバチョフ)、マルタ会談。冷戦終結宣言 1990年 11月〜 長崎県・雲仙普賢岳の噴火(〜1995年) 1991年 6月3日 雲仙普賢岳の噴火で火砕流が発生、死者・行方不明者43名 1993年 1月15日 釧路沖地震(M7.8。死者2名、負傷者966名) 7月12日 北海道南西沖地震(M7.8。死者201名、行方不明者29名、負傷者323名、家屋全半壊1009棟) 1994年 10月4日 北海道東方沖地震(M7.9。死者1名、負傷者245名、家屋全半壊409棟) 12月28日 三陸はるか沖地震(M7.5。死者2名、負傷者285名) 1995年 1月17日 阪神大震災(M7.2。死者6434名、負傷者43792名、家屋全壊約104000棟) 5年間の空白期間 2000年 3月〜 北海道・有珠山の噴火 6月〜 東京都・三宅島の噴火 9月 三宅島の噴火で全島民が避難開始(2005年2月に避難指示が4年5か月ぶりに解除) 10月6日 鳥取県西部地震(M7.3。負傷者182名、家屋全半壊約3400棟) 2001年 3月24日 芸予地震(M6.4。死者2名、負傷者312名、家屋全半壊約840棟) 2年間の空白期間 2003年 7月26日 宮城県北部の連続3回地震(最大M7.0。負傷者107名) 9月26日 十勝沖地震(M8.0。行方不明2名、負傷者842名、家屋全壊60棟) 2004年 10月23日 新潟県中越地震(M6.8。死者51名、負傷者4794名、家屋全壊・大規模半壊約16000棟) 2005年 3月20日 福岡県西方沖地震(M7.0。死者1名、負傷者1080名、家屋全半壊377棟) 2年間の空白期間 2007年 3月25日 能登半島地震(M6.9。死者1名、負傷者218名、家屋全壊59棟、半壊186棟) 7月16日 新潟県中越沖地震(M6.8。死者11名、負傷者1089名、家屋全壊342棟、半壊97棟) 2008年 6月14日 岩手・宮城内陸地震(M7.2。死者13名、行方不明者10名、負傷者448名、家屋全壊23棟、半壊65棟、一部損壊1090棟 ) 7月24日 岩手県沿岸北部の地震(M6.8。負傷者126名、家屋全半壊244棟) 2009年 8月11日 駿河湾を震源とする地震(M6.5。死者1名、負傷者122名、家屋一部損壊4926棟 ) 1年5か月間の空白期間 2011年 1月〜 宮崎県・霧島山新燃岳の噴火 3月11日 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)(M9.0。死者・行方不明者約2万名)
●海溝型地震と内陸地震との関連性
「海域で巨大地震が発生した後、遠く離れた内陸部の活断層が活発化し、M7クラスの直下型地震を誘発した例は、過去にも多数報告されている。たとえば、一九四四年に名古屋沖で東南海地震(M7・9)が起きた一カ月後に、愛知県の内陸で三河地震(M6・8)が発生した。また、一八九六年に三陸沖で起きた明治三陸地震(M8・5)の二カ月半後には、秋田県で陸羽地震(M7・2)が発生した。
このタイプの地震は、海の震源域の内部で発生した余震ではなく、新しく別の場所で「誘発」されたものである」(鎌田浩毅「今そこにある富士山噴火・東海・西日本大地震」、「文藝春秋」2011年6月号、153-154頁)
●三陸沖地震と東海・東南海・南海地震との関連性
東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)と、震源域や津波の規模において相似性が指摘されている、869年(貞観11年)の貞観地震(貞観三陸地震)の発生後、関東地方で、そして東海・東南海・南海地震が発生しているのである。
これもまた表にしてみると、以下のとおりである。
ウィキペディア「地震の年表 (日本) 」より作成 年 月日 地震 863(貞観5)年 7月6日(旧暦7月10日) 越中・越後地震。死者多数、直江津付近にあった数個の小島が壊滅したと伝えられる 864(貞観6)年〜866(貞観8)年 富士山の大規模な噴火活動(貞観大噴火) 868(貞観10)年 7月30日(旧暦8月3日) 播磨・山城地震(M 7台) 869(貞観11)年 7月9日(旧暦7月13日) 貞観地震(貞観三陸地震)(M 8.3〜8.6?)。陸奥国地大震動、地震に伴う津波(貞観津波)の被害が甚大で死者約1000人。多賀城損壊。津波堆積物調査から震源域が岩手県沖〜福島県沖、または茨城県沖の連動型超巨大地震の可能性も指摘 9年間の空白期間 878(元慶2)年 10月28日(旧暦11月1日) 相模・武蔵地震(M 7.4)死者多数。京都でも揺れが感じられる 2年間の空白期間 880(元慶4)年 11月19日(旧暦11月23日) 出雲で地震(M 7.0) 7年間の空白期間 887(仁和3)年 8月22日(旧暦8月26日) 仁和地震(南海地震だが、東海・東南海連動型地震の推定説有)(M 8.0〜8.5?)五畿七道諸国大震。京都・摂津を中心に死者多数。津波あり。地質調査によればほぼ同時期に東南海・東海地震も発生
「千年に一度の巨大地震の世紀になる?」:イザ!(リンク切れ)
2011/08/03 03:16更新
東日本大震災規模とされる平安時代の貞観地震(869年)や関東直下型地震、東海・東南海・南海地震の3連動とみられる仁和地震など9世紀に起きた地震が、阪神大震災(平成7年)以降の地震の状況と酷似していることが、産業技術総合研究所の寒川旭(さんがわ・あきら)招聘研究員(地震考古学)の分析でわかった。近い将来に首都圏直下型や3連動型地震が起きる可能性が高いとの見解を示し、「千年に一度の巨大地震の世紀になるかもしれない」と警鐘を鳴らす。
寒川氏は、古代以降の文献史料とともに、各地の遺跡で発掘された地割れや液状化現象による噴砂などの地震痕跡を調査。9世紀前半に関東北部や東北などでマグニチュード(M)7前後の地震が相次いだ後、貞観地震が発生していることを確認した。
貞観地震は当時の歴史書「日本三代実録」に、「海は猛り吼え、津波が怒濤のように多賀城下に押し寄せ、千人がおぼれ死んだ」と記述。当時の海岸から約5キロ内陸の多賀城跡(宮城県多賀城市)周辺では道路が寸断された跡が見つかり、仙台市などでは津波で運ばれた堆積物もあった。
878年には関東南部でM7以上の直下型地震が発生。887年の仁和地震では、日本三代実録に「都(京都)の建物は倒壊し、圧死する者多数。海岸には海潮(津波)が押し寄せ、無数の人がおぼれ死んだ。大阪湾岸も津波被害が甚大だった」と記録。東海から四国にかけて甚大な被害があったという。
寒川氏の分析によると、最近数十年間に秋田などで死者100人以上を出した日本海中部地震(昭和58年、M7・7)や阪神大震災(M7・3)、新潟県中越沖地震(平成19年、M6・8)など各地でM7前後の地震があり、その後東日本大震災が発生した点が、平安時代の状況と共通していると指摘した。
首都圏直下型地震や東海・東南海・南海地震について寒川氏は、いずれもフィリピン海プレートの影響下にあり関連が深く、過去の首都圏直下型や仁和地震に匹敵する3連動型地震が発生する可能性が高いとした。
また、6月30日に長野県中部で起きた震度5強の地震は、千年あまり活動がなかった牛伏寺断層付近で発生。7月5日にも和歌山県北部で震度5強の地震があったことからも日本列島が活動期にあることが改めて浮き彫りになった。
一方、古代以降、M8・2程度の元禄関東地震(1703年)や3連動型の宝永地震(1707年)があった「18世紀初め」、安政東海地震(1854年)や、高さ9メートルの津波が襲ったという翌日の安政南海地震、死者1万人といわれる安政江戸地震(1855年)が起きた「幕末」にも巨大地震が集中したが、三陸沖では東日本大震災に匹敵する地震はなかった。
寒川氏は「東日本大震災では『想定外』という言葉がしばしば使われたが、文献史料には過去の巨大地震が詳しく記されており、決して想定外ではない」と話した。
古村孝志・東大地震研究所教授(地震学)の話「これまで、江戸時代以前のデータは不確かさがあるということで防災対策などでもあまり注目されなかったが、今回を教訓に文献史料などを見直さないといけない。東日本大震災後の余震は以前より落ち着いてきたが、陸のプレート深部はまだ動いており、バランスをとるために再び大地震が発生する可能性が高く、対策が急がれる」
「謎の“首都直下” 貞観地震の前後に起きていた」:イザ!
配信元:2012/03/14
【過去からの警鐘 埋もれた巨大地震】
平安時代初期の弘仁9(818)年、記録に残る関東最古の大地震が起きた。マグニチュード(M)は推定で7・5以上。学問の神様、菅原道真が編纂(へんさん)した歴史書「類聚(るいじゅう)国史」に、すさまじい被害の様子が記されている。
〈山が崩れ数里の谷が埋まり、数え切れないほどの人々が圧死した。上野国(こうずけのくに)などの境では地震で潦(にわたずみ)ができた〉
「潦」は水たまりのことだ。上野国は内陸の群馬県なので津波ではない。激しい揺れで地盤が液状化し、地下の水と砂が地表に噴き出す「噴砂」が起きたらしい。被害は武蔵(東京都・埼玉県ほか)、相模(神奈川県)など関東諸国に及んだが、震源地は分かっていない。
× ×
この謎の“首都直下地震”を裏付ける痕跡が2年前、初めて発見された。群馬県境に近い埼玉県深谷市の皿沼西遺跡。住居の床などが噴砂で切り裂かれ、いたるところで壊れているのが見つかった。
倒壊した倉庫跡では、柱を立てた穴の中から土器が見つかり、その様式から9世紀第1四半期の集落と判明。発掘した県埋蔵文化財調査事業団は、類聚国史との対比から818年の地震被害と結論付けた。
地震の翌月、嵯峨天皇は被災地に使者を派遣し、身分を問わず免税や家屋修復などの救済を行うよう命じた。震災復興の先駆けだ。遺跡には建物や用水路を再建した跡もある。被災から懸命に立ち上がった人々の姿が浮かぶ。
しかし、復興への道のりは険しかった。被災地は16年が過ぎても「荒廃田」が広がっていたと、六国史の一つである「続(しょく)日本後紀」が伝えている。住居数が回復する本格復興には30年以上かかったようだ。
「考古学は恐ろしいことも、ありのまま分かってしまう。被害と復興の様子が生々しく伝わってくる。一つの時代が見えた」。同事業団の田中広明さん(49)はこう話す。
深谷市付近では、他の多くの遺跡でも平安初期の噴砂が見つかっている。地質学者で埼玉大名誉教授の堀口万吉さん(82)は約25年前、これらが818年の地震の痕跡の可能性があると報告していた。
「当時は誰も信じなかった。やはりそうか、という思いだ。遺跡で地質を丹念に調べると、その地域の変動史が見えてくる」
東大地震研究所教授の佐藤比呂志さん(56)は帯状に広がる噴砂の分布状況から、「周辺の活断層が動いた可能性が大きい」と指摘する。
× ×
9世紀の関東では元慶2(878)年にもM7級の大地震が起きた。「日本三代実録」によると相模、武蔵の被害が甚大で、建物はすべて壊れ、多くの人々が圧死した。相模国分寺では仏像が破損し、同国分尼寺は崩壊したという。この地震もメカニズムなどの実態は不明だ。
神奈川県立高教諭の上本進二さん(60)は、同県中南部に延びる活断層「伊勢原断層」沿いの台地で、9世紀の遺跡から多数の断層や地割れを発見した。遺跡から地震の痕跡を探る「地震考古学」が専門の上本さんは「元慶の地震は伊勢原断層が動いたのだろう」と推測する。
平安期の関東を襲った弘仁と元慶の大地震。佐藤さんは、東北に巨大津波をもたらした貞観地震(869年)の前後に、この2つが起きたことに注目する。
「東京周辺の地下には低頻度で動く活断層が結構ある。これらの活動は海溝型巨大地震にコントロールされている可能性があり、過去の癖を見破れば予測の精度向上に希望が持てる」
「貞観の再来」とも呼ばれる東日本大震災に続き、首都直下への懸念が強まる今日の日本。古代の地震から、将来に備える手掛かりが見つかるかもしれない。(長内洋介)
東日本大震災以降の平成の歴史は、この平安時代の歴史を繰り返すことになるのだろうか。
▼オウムと破防法(1925年=1997年)
表3-5 治安維持法と破防法との対称 ●1920年代 1925年4月22日 治安維持法公布(5月12日施行) 1928年6月29日 治安維持法改正公布、即日施行 ●現代 1997年1月31日 公安審査委員会、オウム真理教への破防法適応の棄却を決定
治安維持法は共産主義思想を警戒するためのものだったが、現代の破防法は、オウムという新興宗教に対するものである(適応は棄却されてしまったが)。
大澤真幸氏は『戦後の思想空間』(ちくま新書、1998)10頁において、オウムと比較される戦前の宗教関連事件は、1935(昭和10)年12月の第2次大本教事件であるとしているが、わたくし(管理人)はその見方には賛同できない。
▼“政治の季節”から“経済の季節”へ
ここで、当ウェブサイトを閲覧している皆様に、“サーカーの社会循環の法則”をご紹介しておかなければならない。
ラビ・バトラ『1995 2010 世界大恐慌』(総合法令、1994)128頁によると、“サーカーの社会循環の法則”は、ラビ・バトラ氏の師であるプラバード・ランジャン・サーカー氏が最初に提唱したものらしい。
時代の主役は武人のサイクル→知識人のサイクル→富裕人のサイクル→武人のサイクルという順番で移り変わってゆくという法則である。
法則を表にすると、以下の通りである。
表3-6 社会循環の法則・西欧編(ラビ・バトラ『1995 2010 世界大恐慌』128-155頁、浅井隆、ラビ・バトラ『日本と世界は同時に崩壊する!』(あ・うん、2006)142-152頁より作成) 年代 支配層 特徴と主な出来事 紀元前8世紀〜紀元後5世紀半ば 武人 ローマ帝国時代 紀元後5世紀半ば〜13世紀 知識人 神聖ローマ帝国成立(962)
カノッサの屈辱(1077)・ローマ教皇の権力絶頂13世紀〜16世紀 富裕者 封建制度の繁栄
メディチ家の繁栄とルネサンス
ハプスブルク家の繁栄16世紀〜17世紀 武人 絶対王政の時代
イギリス・エリザベス1世(在位1558〜1603)
フランス・ルイ14世(在位1643〜1715)17世紀〜19世紀後半 知識人 イギリス、クロムウェルが護国卿に就任(1653)
イギリス、ウォルポール内閣成立(初の内閣制度)(1721)
フランス革命(1789〜)19世紀後半〜現在 富裕者 産業革命がイギリスから各国に波及
資本主義経済の勃興と発達
表3-7 社会循環の法則・日本編(ラビ・バトラ『1995 2010 世界大恐慌』140-148頁より作成) 年代 支配層 特徴と主な出来事 紀元後3世紀〜9世紀 武人 武力による豪族の支配
大和朝廷による支配9世紀〜12世紀半ば 知識人 藤原家による天皇家のコントロール(摂関政治) 12世紀半ば〜16世紀半ば 富裕者 荘園制度の発展による地主の繁栄 16世紀半ば〜18世紀 武人 応仁の乱(1467〜)
戦国時代
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の登場18世紀〜20世紀 知識人 江戸幕府中期以降(1720ころ〜) 20世紀〜現在 富裕者 普通選挙法公布(1925)
詳しく述べると、旧統治システムが腐敗などの機能不全に陥り、崩壊する過程において、多くの場合、戦争・革命・クーデターなどが多発する。この乱世の時代に活躍するのが武人である。
武人の活躍によって旧システムが崩壊した後、新たな統治システム(国家)を立ち上げ(建国)、確立・安定させるには、新時代に沿った規範が必要である。これには知識人が不可欠である。
新統治システムが安定して稼働するようになると、人々には経済的・精神的に余裕が生まれてくる。社会が成熟してきたのである。経済的な余裕は経済の繁栄を、精神的な余裕は文化の繁栄を生む。富裕人たちの活躍の舞台である。
しかし、社会の成熟は、プラス面もあると同時にマイナス面もある。建国世代の人々の退場(引退や死)により、人々は建国の理想を失い、先例に拘束されることになる。社会が硬直化、閉塞化していくのである。
そして、経済・文化の繁栄は、いつも行き過ぎて終わるのである。経済の繁栄は、それこそ“ニューエコノミー”のように永遠に続くわけがない。いつかバブルは崩壊する。その結果、企業が倒産して失業者が増え、銀行が破産して経済システムが麻痺し、人々の不満が鬱積し、統治システムへの不信が増大する。
一方、文化の繁栄はやがて爛熟へと至り、エロ・グロ・ナンセンスを生み、爛熟は退廃となり、人心が荒廃し、下劣な事件が頻発し、治安が悪化し、システムが膿む大きな要因となる。
かくして、綱紀粛正が叫ばれることになり、再び武人の出番がやって来る。
歴史はこのサイクルの繰り返しなのだろう。
さて、「社会循環の法則」は、数百年単位で循環する超長期間のサイクルだが、わたくしには、近代70年サイクルのひとつの周期内においても、知識人→富裕人→軍人というミニサイクルの変遷が観測されているように見えるのである。
さらに加えて、わたくしには、1989年の米ソ冷戦終結以降の日本の歴史にも、ミニサイクルが観測されているように見えるのである。
1992年頃から1996年頃までが“政治の季節”である。1993年の細川政権誕生あたりが頂点だったろう。
1996年頃から2001年頃までが“経済の季節”である。1997〜98年の平成金融危機(後述する)あたりが頂点だったろう。
アメリカで同時多発テロが発生した2001年頃からは“軍事の季節”に移行しつつあるように見える。
1993年の“政治改革”の熱気も覚め、ミニサイクルは、”政治”から“経済”へ巡ろうとしていた。
1997年11月の経済危機が、”政治”から“経済”へと季節が巡る転換点となったのだろう。
▼大正から昭和へ―天皇崩御と恐慌の関係(1926年)
浅井隆は、『日本発、世界大恐慌!』(徳間書店、1992)7頁、『日本沈没、日本再生』(第二海援隊、1999)43頁において、天皇の崩御と恐慌との関係について記している。
No.1で前述した1990年2月からの日経平均の下落は、昭和天皇崩御の翌年に起きている。1926年12月25日には大正天皇が崩御し、昭和に改元された。翌1927年3月、金融恐慌が起こっている。どちらも歴史に特筆される不況に突入しているのである。
明治天皇崩御後の1913〜14(大正2〜3)年は「諒闇(りょうあん。天皇が父母の喪に服する期間のこと)不況」と言われたそうだが(『バブル興亡史』60-61頁より)、今やそんな言葉は歴史研究家にもロクに知られてはいないだろう。なぜならば、この時は恐慌は大規模化しておらず、例外のケースになっているからである。
これはなぜか。つまり、天皇の崩御のタイミングが日本の衰退と重なっていたか、いなかったかの違いだろう。つまり明治天皇の崩御の時は、日本はまだ勃興の真っ直中だったので、恐慌が大規模にならなかったのだろう。衰退期間中においては、天皇の崩御が恐慌発生の号砲になっているようである。
なお、日本の歴史のパターンについてはNo.6で後述する。
▼金融恐慌と平成金融危機(1927年=1997年〜1998年)
表3-8 金融恐慌の動き 1927(昭和2)年 3月14日 片岡蔵相、「東京渡辺銀行が破綻」と失言。金融恐慌始まる 3月29日 銀行法公布 4月4日 鈴木商店閉店 4月17日 台湾銀行救済のための緊急勅令案が否決され、若槻内閣総辞職 4月18日 台湾銀行休業 4月20日 田中義一内閣成立(第26代首相)。蔵相高橋是清 4月21日 十五銀行休業 4月22日 高橋蔵相、3週間を期限とする支払猶予令(モラトリアム)の緊急勅令実施。同時に全銀行の2日間の臨時休業を決定 4月25日 全銀行営業再開。混乱起きず 5月10日 日銀総裁に井上準之助就任 5月12日 モラトリアム終了。全銀行平穏 6月2日 高橋蔵相辞任 1928(昭和3)年 1月1日 銀行法施行
表3-9 “平成金融危機”の動き 1997(平成9)年 11月3日 三洋証券経営破綻 11月17日 北海道拓殖銀行(拓銀)経営破綻(戦後初の都市銀行の経営破綻) 11月22日 山一証券経営破綻 1998(平成10)年 6月8日 円ドル相場、1ドル=140円73銭に(プラザ合意後の円安の頂点) 6月22日 金融監督庁発足 7月12日 参議院選挙で自民党敗北。橋本首相辞意表明 7月30日 小淵恵三内閣成立。蔵相宮沢喜一 10月9日 日経平均終値、12879円97銭(バブル崩壊後3番底) 10月12日 金融再生関連法案が参議院本会議で可決、成立 10月23日 政府、長銀(日本長期信用銀行)に戦後初の国有化を適用 12月13日 政府、日債銀(日本債券長期信用銀行)を国有化 わたくしは、1997〜1998年の事態を、1927年の“金融恐慌”と区別するために、“平成金融危機”と呼称したい。
対称できる点は2点ある。まず1点目は、玉置紀夫『日本金融史』(有斐閣、1994)180頁、浅井隆『取り付け騒ぎマニュアル』(総合法令、1996)85頁によると、1927(昭和2)年の金融恐慌は、第1波〜第4波が確認できるとしている。
一方“平成金融危機”は、年表を見てもお分かりのように、1997年11月の第1波と、1998年10〜12月の第2波が確認できる。
2点目は法律である。銀行法は1927年3月8日に衆議院で可決、3月29日に公布され、1928年1月1日に発効した(『日本金融史』190頁より)。1998年においてこれと対称されるのが金融再生関連法案であろう。
金融再生関連法案とは、金融再生法、金融機能早期健全化緊急措置法などの各法の総称である。
金融再生法は、経営が破綻した金融機関の処理手続きを規定する法律である。
破綻金融機関の処理方法は3つある。この法によって、長銀、日債銀が一時国有化されることになったのである。
- ・特別公的管理…公的資金で全株式を買い取り、一時的に国有化する。
- ・ブリッジバンク…金融整理管財人を派遣して公的管理に移す。
- ・清算…金融機関を消滅させる。
かくして恐慌が発生したため、日経平均株価も下落することとなった。
bPで前述したように、日経平均は1992(平成4)年8月18日に、バブル崩壊後最安値の14309円41銭を付けた。その後、“平成金融危機”までは、表3-9のように、下値を14000円、上値を22000円とするボックス圏相場を繰り返していた(山田伸二『世界同時デフレ』東洋経済新報社、1998、26頁)。
これに関連して、林どりあん『歴史が教える相場の道理』(日経ビジネス人文庫、2001)には、
「重要なのは、『通い』相場である。これは、相場が天井と底の間を長期にわたって往復する大保合い(※管理人注、「おおもちあい」)に入ったことを示す。バブル崩壊後の一九九〇年(平成二年)以降の株式相場は、おそらくこうした大保合い圏に入ったのではあるまいか」(62頁)
とある。
しかし、“平成金融危機”以降はパンドラの箱が空いてしまったようで、日経平均は、それまでの底値だった14000円のラインすら割り込んでしまい、1998(平成10)年10月9日、12879円97銭まで下落してようやく底を打った。
表3-10 日経平均株価の推移と、関連の動き(1992〜1998年) 表1-8からの続き 1992(平成4)年 8月18日(火) 日経平均終値、14309円41銭(バブル崩壊後1番底。史上最高値・1989年12月29日からの下落率63.2%) 1993(平成5)年 2月4日(木) 日銀、公定歩合を0.75%利下げし2.5%に 9月21日(火) 日銀、公定歩合を0.75%利下げし1.75%に 11月?日 日経平均終値、16078円71銭(戻り安値) 1994(平成6)年 6月13日(月) 日経平均終値、21552円81銭(1992年8月18日の1番底以降の反発の最高値) 1995(平成7)年 4月14日(金) 日銀、公定歩合を0.75%利下げし1.0%に 4月19日(水) 円ドル相場、1ドル=79円75銭(円の戦後史上最高値、プラザ合意後の円高の頂点) 7月3日(火) 日経平均終値、14485円41銭(バブル崩壊後2番底) 9月8日(金) 日銀、公定歩合を0.5%利下げし0.5%に 1996(平成8)年 6月26日(水) 日経平均終値、22666円80銭(1995年7月3日の2番底以降の反発の最高値) 1998(平成10)年 6月8日(金) 円ドル相場、1ドル=140円73銭に(プラザ合意後の円安の頂点) 10月9日(金) 日経平均終値、12879円97銭(バブル崩壊後3番底) 以下、表4-3に続く
No.1で前述したように、プラザ合意の翌日・1985年9月24日の円ドル相場は、1ドル=230円90銭。また、日経平均株価の終値が史上最高値を記録した1989年12月29日の円相場は1ドル=143円40銭だった。
1990年2月以降、日経平均は暴落した。その過程において株・債券・円の「トリプル安」となったことはあったが、しかし円は日経平均のように暴落を続けたりはせず、1990年6月25日の1ドル=155円62銭で円安は止まってしまい、以降は日経平均の暴落とは無関係に円高となった。そして、日本経済の頂点(日経平均最高値の1989年12月)より5年も遅れて、1995年4月19日に戦後史上最高値の1ドル=79円75銭を記録したのである。
1989年から2006年までの円ドル相場をグラフでご覧になりたい方は、こちらのリンクを見るとよいだろう。
過去の日経平均の推移が気になった方々は、日本経済新聞社の公式サイトである日経平均プロフィールを御覧頂きたい。1949年5月16日に東京証券取引所が戦後初めて取引を再開して以降、現在までの日経平均株価の終値を検索出来る。
▼金融機関の再編(1923年〜1933年=1999年〜2003年)
表3-11 金融恐慌以降の金融機関再編 1923(大正12)年 11月1日 安田系銀行12行が合併し、安田銀行誕生 1927(昭和2)年 4月 第一銀行、東海銀行と古河銀行を合併 1928(昭和3)年 3月 住友銀行、久留米銀行を吸収 7月 安田銀行、毛利銀行を合併 1929(昭和4)年 4月 三菱銀行、森村銀行を合併 1930(昭和5)年 11月 住友銀行、浅田銀行を吸収 1931(昭和6)年 9月 住友銀行、和歌山倉庫銀行を吸収 1933(昭和8)年 8月 三十四、山口、鴻池の3銀行の対等合併により三和銀行誕生
表3-12 “平成金融危機”以降の金融機関再編 1999(平成11)年 8月20日 第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行、将来の持ち株会社設立と事業統合を発表 10月14日 住友銀行とさくら銀行、対等合併を発表 2000(平成12)年 9月29日 第一勧銀、富士銀、興銀、みずほホールディングスを設立 2001(平成13)年 4月1日 住友とさくら、対等合併し三井住友銀行設立 4月2日 東京三菱銀行と三菱信託銀行、経営統合し三菱東京フィナンシャルグループ設立 三和銀行、東海銀行、東海信託銀行、経営統合し持ち株会社UFJホールディングス設立 2002(平成14)年 4月1日 みずほグループの第一勧銀、富士銀、興銀と安田信託銀行を、みずほ銀行、みずほアセット銀行、みずほコーポレート銀行に再編 2003(平成15)年 3月3日 りそなホールディングス、りそな銀行などに再編 5月17日 りそな銀行に公的資金注入決定、事実上の国有化 2006(平成18)年 1月1日 東京三菱銀行とUFJ銀行が合併し東京三菱UFJ銀行設立 2010(平成22)年 9月10日 日本振興銀行経営破綻
表3-10と表3-11の作成には、玉置紀夫『日本金融史』(有斐閣、1994)167〜169・195〜200頁、『昭和経済史 上』(日経文庫、1994)50〜54頁を参考にした。
金融機関の再編は、1997〜98年の“平成金融危機”以降本格化した。
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工事中
この部分はまだ作成中です。ご迷惑をおかけしております。
完成まで今しばらくお待ち願います。 m(__)m
※現代、金融機関は具体的にいくつ減ったのか?
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『昭和経済史』には、
『恐慌のさなかの昭和二年三月三十日に交付され、翌三年一月十日施行された「銀行法」も中小銀行の整理合同を推進した。同法は大正後期の銀行破綻を背景に制定されたもので、@銀行の株式会社化A最低資本金の制限(東京、大阪は二百万円以上、人口一万人以下の地では五十万円以上、その他は一百万円以上)(中略)などの条項を含み、明治二十三年の銀行条例に比べれば著しく規制が強まった』(52頁)
「金融恐慌による中小銀行の経営難および銀行法による無資格銀行の整理、そして大蔵省・日銀・県当局による合同の勧奨によって、昭和初年に嵐のような銀行合同がおこなわれた。普通銀行数は昭和元年末の千四百二十行から同十年末の四百六十六行へとほぼ三分の一に減少したが、そのうちに合併によって四百四十九行が、買収によって二百十行が消滅した。(中略)この時期における五大銀行による直接的合併および買収は合計してわずか七件しかみあたらない」(52頁)
とある。現代の銀行合併が、大手のいわゆるメガバンクが中心になっているのと比較すると、対照的である。
しかし、これら平成の銀行合併は、箭内昇『メガバンクの誤算』(中公新書、2002)によれば、
「大再編は、機能の拡充も合理化もともなわず、単に規模の拡大によって見せかけの信頼感を得るだけの目くらましであり、不良債権問題からの『大逃走』であった」(148頁)
という。
坂爪一郎・立木信・溝上憲文『メガバンクがコンビニに負ける日』(光文社、2004)にも、
「銀行という業種においては一般的に企業合併のメリットとして挙げられる『規模の経済』も『範囲の経済』も働かないから、銀行の合併は必然的に破綻するのだと結論づけている」(133頁)
とある。
銀行は統合ではなく分割せよという指摘は、別宮暖郎『軍事のイロハ』(並木書房、2004)においても、
「銀行が合併したところで、効率があがるわけでもなく、預金者が便利になるわけでもありませんでした。
一般に、銀行の経営がよくなる方法は、合併ではなく分割です。役人はどうしてもこの単純な事実がわかりません」(258頁)
となされている。
▼大陸との緊張増大(1927年〜1928年=1998年〜2002年)
1927年から1930年にかけては、日本の金融恐慌と並行して、後の満州事変への導火線となる出来事が、大陸で相次いで発生していた。
表3-13 第2次大戦前の日本と大陸との緊張 1927年 5月28日 第1次山東出兵(〜9月8日) 1928年 4月20日 第2次山東出兵 5月3日 済南事件発生 5月9日 第3次山東出兵 6月4日 関東軍、張作霖爆殺事件を起こす 1930年 5月30日 中国の間島で朝鮮人の反日武装勢力が蜂起。軍を派遣
表3-14 現代の日本と大陸の緊張 1998年 8月31日 北朝鮮、弾道ミサイルテポドン1号を試射 1999年 3月23日 日本海にて北朝鮮不審船の領海侵犯事件。海上自衛隊が史上初の海上警備行動を発令され不審船を追跡 2001年 4月1日 南シナ海にて米軍偵察機と中国戦闘機との空中衝突事件。米軍偵察機は海南島に強制着陸 12月29日 東シナ海にて北朝鮮工作船と海保巡視船が銃撃戦。工作船は沈没(2002年9月11日引き揚げ) 2002年 5月8日 中国・潘陽の日本総領事館に北朝鮮難民が亡命するも、中国武装警官が敷地内に乱入し連行される。日本政府、主権侵害として中国に対し抗議 9月17日 小泉首相、史上初の北朝鮮訪問。金正日総書記と首脳会談。金正日、日本人拉致を正式に認め謝罪。日朝平壤宣言採択 10月15日 生存していた拉致被害者5名帰国 2003年 8月27日 北朝鮮をめぐる第1回6か国協議、北京で開催 12月19日 政府、ミサイル防衛(MD)の導入を閣議決定 2004年 5月22日 小泉首相2度目の訪朝。金正日と首脳会談。拉致被害者の子供5名帰国 6月18日 特定船舶入港禁止法公布 11月10日 沖縄県宮古列島付近を中国海軍の潜水艦が領海侵犯。海上自衛隊は1999年3月以来2度目の海上警備行動を発令され潜水艦を追跡 2005年 4月 中国の北京・上海で大規模な反日デモ 9月19日 第4回6か国協議。北朝鮮、核計画の放棄を約束 2006年 7月5日 北朝鮮、テポドン2号など、弾道ミサイル7発を試射 10月9日 北朝鮮、核実験の実施を発表 2009年 4月5日 北朝鮮、弾道ミサイル「テポドン2号」試射。日本のMD防衛網は初の実戦体制に 5月25日 北朝鮮、2006年10月以来2度目の核実験を実施 2010年 9月7日 尖閣諸島沖にて海保の巡視船と中国の漁船が衝突。漁船の船長を拘束するも、中国側の圧力により釈放(尖閣諸島中国漁船衝突事件) 9月27日 金正日の三男・金正恩に朝鮮人民軍大将の称号が与えられ、事実上の後継者に確定 2011年 12月19日 北朝鮮、金正日総書記死去 2012年 4月11日 北朝鮮、金正恩が朝鮮労働党第1書記に就任 4月13日 北朝鮮、衛星打ち上げと称して弾道ミサイルを発射するも、失敗 12月12日 北朝鮮、弾道ミサイル「テポドン2号」試射。成功
現代の年表において、日本のみならず、米軍の行動も記入されているのを不思議に思う方もおられるかも知れないが、兵頭二十八氏は、
「近未来の極東有事に関して、日本国の意思は米国政府が代わりに決定するのであり、日本国の官民の行動は米国政府が代わりに命ずるのである」(「諸君!」1999年3月号)
「将来の某時点、『アメリカが誰を極東における自国の友あるいは敵であるとみるか』によって、日本国の投げ込まれる運命もオートマチックに決まらざるを得ないのである」(『武侠都市宣言!』四谷ラウンド、2000、144頁)
と述べている。アメリカの属国である日本に軍事の主体性などないのだ。
太田述正・兵頭二十八『属国の防衛革命』(光人社、2008)の第1章においても、太田氏は、日本は米国の属国であると、はっきり指摘している。わたくしもこの説明に完全に同意するので、米軍の行動を記入するのである。
そして、以下は全くの余談かも知れないが、北朝鮮では、1994年以降、サッカーワールドカップのある年毎に大事件が起こっているようにも見える。
表3-15 1994年以降、サッカーワールドカップと、北朝鮮の大事件が連動している法則 サッカーワールドカップ 北朝鮮で発生した大事件 アメリカ
(1994年6月〜7月17日)→ 同年 7月8日 金日成死去 フランス
(1998年6〜7月)→ 同年 8月31日 弾道ミサイルテポドン1号を試射 日韓
(2002年5〜6月)→ 同年 9月17日 小泉首相、史上初の訪朝。金正日総書記と首脳会談。金正日、日本人拉致を正式に認め謝罪。日朝平壤宣言採択 ドイツ
(2006年6月〜7月9日)→ 同年 7月5日 テポドン2号など、弾道ミサイル7発を試射 10月9日 初の核実験を実施 2009年 4月5日 テポドン2号を試射 5月25日 2006年10月以来2度目の核実験を実施 南アフリカ
(2010年6月)→ 2010年 9月27日 金正日の三男・金正恩に朝鮮人民軍大将の称号が与えられ、事実上の後継者に確定 2011年 12月17日 金正日死去 2012年 4月11日 金正恩が朝鮮労働党第1書記に就任 4月13日 弾道ミサイル「テポドン2号」試射するも失敗 12月12日 弾道ミサイル「テポドン2号」試射。成功 ブラジル
(2014年)? ? ? ?
という具合である。
1990年以前は、サッカーワールドカップのある年に北朝鮮をめぐる大事件は起きていない。あくまでも1994年以降に限定される法則なのである。
また、表を見れば一目瞭然だが、北朝鮮での大事件は、94年(アメリカ)と06年(ドイツ)は閉幕直前に、98年(フランス)と02年(日韓)は閉幕後に起きている。
2009年は、2010年ワールドカップの開催前に北朝鮮で大事件が起きた、唯一の例外となった。
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