歴史はなぜ繰り返すのか 対称年表と近代70年サイクル・No.5
(文中敬称略)
開設 2006(平成18)年11月4日
(この間省略)
更新 2010(平成21)年3月15日
更新 2010(平成22)年5月9日
更新 2010(平成22)年9月26日
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対称年表と近代70年サイクルNo.5 目次
第1部 対称年表・1919〜1936と1989〜2008
▼米同時テロは第3次世界大戦・15年戦争への導火線か(2001年〜)
▼満州事変とイラク戦争(1931年=2003年)
▼“経済の季節”から“軍事の季節”へ(2003年)
▼イラク統治の行方
▼テロルの季節(1932年=2003年)
▼浜口内閣と小泉内閣・その2(1933年=2006年)
▼ロシア大統領選挙(1933年=2004年)
▼日本経済の復調(1931〜1935年=2003〜2007年)
▼短命に終わった安倍・福田政権
▼日本の好景気はいつまで続くか
▼アメリカの好景気はいつまで続くか
▼アメリカのサブプライムローン問題に端を発した金融危機(2008年)
▼北京オリンピックはベルリンオリンピックと対称されるか(1936年=2008年)
▼日本企業の中国進出
▼アメリカ大統領選挙(1936年=2008年)
歴史はなぜ繰り返すのか 対称年表と近代70年サイクル・No.4に戻る
▼米同時多発テロは第3次世界大戦・15年戦争への導火線か(2001年〜)
同時多発テロにより、第3次世界大戦へのスケジュールが前倒しされたのだろうか?
対テロ戦争は、アメリカVS「悪の枢軸」、あるいはイスラムテロ組織との15年戦争になるのだろうか?
同時多発テロによって深刻な恐怖を覚えたアメリカは、2002年1月29日のブッシュ大統領の演説によって、北朝鮮、イラン、イラクの三か国を“悪の枢軸”と名指しした。また2002年9月17日のブッシュ大統領の演説、いわゆる“ブッシュ・ドクトリン”によって、テロ阻止のためにはテロ組織または支援国家に対する先制攻撃も辞さないと表明したのである。
ピーター・ペース米統合参謀本部議長(当時)は「テロ戦争は10〜15年かかる」と発言したそうだ(朝日新聞2003年11月6日夕刊1面)。しかし、その所要年数の根拠などは示していないらしい。
アメリカは“対称年表”の存在を知っているのではないだろうな?まあ考え過ぎだろうが。
▼満州事変とイラク戦争(1931年=2003年)
2003年3月20日、米英軍がイラク攻撃を開始した。
兵頭二十八氏は、「米国のイラク攻撃と新政権樹立工作は、日本が1931(昭和6)年に起こした満州事変に少し似ている」としている(「イラク戦争で『国連』は終わった 国家としての日本が復権する日」正論2003年6月号より)。
満州事変以前から、日本は中国各地で過激化する抗日運動に悩まされていた。
イラク戦争は、言うまでもなく1991年の湾岸戦争以来続くアメリカとイラクの対峙の結果に起こったのである。
兵頭氏は、太田述正・兵頭二十八『属国の防衛革命』(光人社、2008)においても、
「一九九一年のデザート・ストーム作戦のあとも、米英軍とイラク軍は、断続的な交戦状態にあった。つまり米国は「十三年戦争」の仕上げとして、本来は同意を得る必要もなかった国連や独仏に何度も話を通した上で、イラクの政体変更を決心したのだ」(185頁)
とも述べている。
しかし一方で、決定的な違いもある。満州事変は、石原莞爾・板垣征四郎ら関東軍が主導・独走した結果発生し、日本政府は後からこの行動を追認したのに対して、イラク戦争は明白なアメリカ政府の意思として実施されたのである(最も、イラク戦争はネオコンの独走によるものだとも反論されそうだが)。
表5-1 1931年、満州事変のケース
※大杉一雄『日中十五年戦争史』(中公新書、1996)を参考にした。1931(昭和6)年 9月18日 柳条湖事件。●満州事変起こる 9月21日 中華民国、柳条湖事件を国際連盟に正式に提訴 12月10日 国際連盟、満州問題調査委員会を設置 1932(昭和7)年 1月7日 スチムソン米国務長官、日本のパリ不戦条約違反として満州侵略の不承認を表明(スチムソン・ドクトリン) 1月14日 国連理事会、満州問題調査委員会委員にリットンらを承認 1月28日 第1次上海事変起こる(5月5日停戦協定調印) 2月29日 リットン調査団、日本・満州での現地調査を開始 3月1日 満州国建国宣言 9月15日 日本政府、日満議定書を締結し満州国を承認 10月1日 リットン調査団の報告書、日本政府に通知。満州事変での日本の自衛行動を否認する内容 1933(昭和8)年 2月23日 関東軍、熱河作戦開始 3月24日 日本の国連代表松岡洋右、国連総会の対日勧告採択に抗議して議場より退場 3月27日 日本、国連に対し脱退を正式に通告 5月31日 塘沽停戦協定。●満州事変終結 1934(昭和9)年 3月1日 満州国執政溥儀、皇帝に就任。帝政はじまる
表5-2 2003年、イラク戦争のケース 2003(平成15)年 3月20日 ●米英軍、イラク攻撃開始 4月9日 米軍バクダッド占領。サダム・フセイン大統領行方不明 5月1日 ブッシュ米大統領、大規模戦闘終結宣言 5月12日 CPA(連合暫定復興当局)設立 7月13日 イラク人による統治組織「統治評議会」設立 8月9日 バクダッドの国連事務所にテロ。デメロ特別代表が死亡。国連はこの事件を契機にバクダッドから撤退 12月13日 米軍、フセイン大統領を拘束 2004(平成16)年 6月2日 暫定政権が発足 6月28日 主権がCPAから暫定政権に移行 11月 米大統領選挙でブッシュ再選 2005(平成17)年 1月30日 国民議会選挙実施 4月28日 移行政府が発足。暫定政権は解消 12月14日 ブッシュ米大統領「イラクの大量破壊兵器情報の多くが間違っていた」と発言 12月15日 2度目の国民議会選挙実施 2006(平成18)年 4月22日 正式政府の首相にジャワド・マリキが指名される 5月20日 正式政府が発足。移行政府は解消 11月10日 ブッシュ米大統領、中間選挙での敗北により、ラムズフェルド国防長官を事実上更迭 12月30日 フセイン元大統領の死刑執行 2007(平成19)年 1月11日 ブッシュ米大統領、新しいイラク政策(米軍約2万人を追加派兵)を発表 2008(平成20)年 11月4日 米大統領選挙でオバマ当選 2009(平成21)年 2月27日 オバマ米大統領、イラク駐留米軍(14万人超)のうち、全戦闘部隊約10万人を2010年8月末までに撤退。イラク国軍の訓練など非戦闘任務や対テロ任務に従事するため残留する部隊(3万5千−5万人)も、2011年末までにイラクから全面撤退させる方針を表明 2010(平成22)年 8月19日 イラク駐留米軍の最後の戦闘部隊が撤退完了 2011(平成23)年 5月2日 国際テロ組織アルカイダのウサマ・ビンラディン、米軍の奇襲作戦によりパキスタンで死亡 10月21日 オバマ米大統領、イラク駐留米軍(4万人)を予定通り年内に完全撤退させると発表 12月14日 ●オバマ米大統領、陸軍基地で演説、イラク戦争の終結を宣言 12月18日 イラク駐留米軍、最後の部隊がクウェートに出国し撤退を完了
しかし、イラク戦争開戦後3年が経過した2006年でも、イラクでの米軍に対するテロはおさまっていない。これは、イラク戦争と対称されるのは満州事変ではなく、支那事変であることを示しているようにも見える。
「voice」2004年3月号の長谷川慶太郎氏の論文「イラク占領はかならず成功する」は、これまた米軍のイラク占領を満州事変になぞらえていて、イラクの軍隊と警察が機能するようになればテロは終息していくとしている。
一方、2004年9月13日、パウエル米国務長官は「イラクに大量破壊兵器は存在すると信じていたが、結果的に見つからなかった。今後も見つからないだろう」と発言した。
2005年12月14日、ブッシュ大統領は「イラクに大量破壊兵器が存在するという情報の多くが間違っていた」と発言した。
イラク駐留米軍は年内完全撤退へ、オバマ大統領「戦争終結」 (ロイター)
ロイター 2011年10月22日(土)11時20分配信
http://jp.reuters.com/article/jpUSpolitics/idJPJAPAN-23757320111022
[ワシントン 21日 ロイター]
オバマ米大統領は21日、ホワイトハウスで記者会見を行い、イラク駐留米軍を予定通り年内に完全撤退させると発表。「約9年を経て、イラクでの米国の戦争は終結する」と語った。
米国とイラクは過去数カ月、イラク治安部隊育成のために数千人規模の部隊を引き続き駐留させることで交渉を続けてきたが、条件面が折り合わずに決裂。オバマ大統領は、2011年末までに4万人をイラクから撤収させるという当初の公約を守る格好となった。これにより、旧フセイン政権による大量破壊兵器保有を名目にブッシュ前政権が主導したイラク戦争は、ようやく終止符が打たれることになった。
オバマ大統領は会見に先立ち、イラクのマリキ首相とビデオ電話を通じて会談。年内完全撤退という当初の計画を遂行することで合意したとしている。
イラク駐留米軍は、ブッシュ前政権時の2007年には19万人規模に達していた。イラク戦争では、これまでに米兵約4500人が死亡、戦費は7000億ドル(約53兆円)を超えている。
最終更新:2011年10月22日(土)11時22分
米大統領:イラク戦争終結を宣言 陸軍基地で演説 - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/world/news/20111215k0000e030163000c.html(リンク切れ)
【ワシントン白戸圭一】オバマ米大統領は14日、米ノースカロライナ州のフォートブラッグ陸軍基地でイラク帰還米兵を前に演説し、「イラクの未来は国民の手に委ねられる。今日をもってイラクでの米国の戦争は終わる」と述べ、2003年3月から続いてきたイラク戦争の終結を宣言した。旧フセイン政権による大量破壊兵器開発を理由にブッシュ前米政権時代に開始され、国際社会の分断を招いた戦争は8年9カ月を経て幕を閉じる。
来年の大統領選で再選を目指すオバマ大統領は、演説で「お帰りなさい」と帰還兵に呼びかけ、「数日中に最後の部隊がイラク出国を始め、米軍の歴史で最も特別な一章が幕を閉じる」「イラク戦争は間もなく歴史の一部になる」と述べ、公約に掲げたイラクからの撤収完了を誇示した。バグダッドでは15日に米軍部隊の旗を降ろす式典が開かれる予定だ。
大統領は2009年1月の就任前にはイラク戦争に反対していたが、演説では「我々は、安定し、民衆に選ばれた政府を持つイラクを去る」と述べ、イラク民主化の成果を強調した。一方で「戦争終結は開戦より難しい」とも語り、イラク治安部隊への権限移譲が困難だったことを認めた。
米国防総省によると、イラク戦争には約150万人の米兵が投入され、4487人(13日現在)の米兵・米文官が死亡。イラクの民間人犠牲者数は非政府組織「イラク・ボディー・カウント」が10万4080〜11万3728人と推計しているが、正確な数は分かっていない。
大統領は演説で「戦争の代償を肝に銘じている」と犠牲者に弔意を表明、「戦争にはさまざまな困難があった。国内でも賛否両論があった」と述べ、内外で広がった反戦世論にも言及した。開戦理由とされた大量破壊兵器は発見されず、混乱でイラクが「国際テロの温床」と化したこともあり、米国の国際的地位の低下を招いた。
オバマ大統領は就任後、14万4000人だったイラク駐留米軍の段階的撤収に着手し、2010年8月に戦闘部隊の撤収を完了した。その後、約4万人の米兵がイラク治安部隊の訓練などに従事。米政府内には駐留継続を望む声があったが、大統領が2011年10月に年内の完全撤収を決断した。
毎日新聞 2011年12月15日 10時53分
米軍最後の部隊がイラク撤退完了、約9年にわたる戦争終結 | Reuters
2011年12月19日 09:39 JST
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE7BI00C20111219
[K-CROSSING(クウェート) 18日 ロイター]
イラク駐留米軍は18日、最後の部隊が隣国クウェートに出国し、撤退を完了した。2003年3月に始まったイラク戦争では、約9年間で米兵約4500人と少なくとも6万人のイラク人が犠牲となった。
米兵約500人を乗せた武装車両約100台は同日朝、イラク南部の砂漠地帯をクウェート側に越境。米兵らはクラクションを鳴らし、沿道の兵士らに手を振るなどして撤退完了を喜んだ。
米軍は撤退するものの、イラクはなお政治的には不安定。イスラム教のシーア派、スンニ派、クルド民族が合意した権力分担は既に行き詰まり状態にあり、シーア派主導の政府がスンニ派の副首相を更迭するよう議会に求めたほか、治安筋によると、スンニ派の副大統領に対する逮捕状も出されているという。
なお、イラク戦争と満州事変ではなく、イラク戦争とベトナム戦争との対称を挙げている見解が世間には多いが、わたくしはその見方には賛同できない。
なぜなら、ベトナム戦争は、中西輝政氏が『大英帝国衰亡史』(PHP文庫、2004)184-185頁で述べている「辺境戦争」に該当するものであり、「周期境界大戦」の前段階、序章の段階である2007年現在の情勢下においては、同じく「周期境界大戦」の前段階となった満州事変と対称するのが最もふさわしく、近代70年サイクルの中期の「辺境戦争」であるベトナム戦争と対称するのはふさわしくないと、わたくしは考えるためである(「辺境戦争」についてはNo.7で詳述する)。
そしてNo.3の「▼大陸との緊張増大」の項で前述したように、外交・軍事政策においては、戦前の日本の役割を、現在はアメリカが果たしているようである。
イラク占領は満州占領と対称されるのだろうか?
だとするなら、日本軍が華北から華中・華南へと戦争を拡大していったように、アメリカもイラクからイラン、シリア…とイスラム諸国全体に戦線を拡大していくのだろうか?
(※2012年現在においては、戦争ではなく「ジャスミン革命」という別な方法によって、チュニジア、エジプト、リビアでは既存の体制が崩壊し、シリアも内戦状態に突入している)
産経新聞編集委員兼論説委員・高畑昭男氏のブログ「中東民主化−−7年後の真実:イザ!」には、
チュニジアで始まり、エジプトにも及んだ民主化デモ。このうねりを最も期待して見守っているのは、ブッシュ前米大統領ではないだろうか。
とある。
ちなみに、イラク戦争に先立つ、2001年からのアフガニスタン戦争は以下の表のとおりである。
表5-3 2001年、アフガニスタン戦争のケース 2001(平成13)年 9月11日 アメリカ同時多発テロ 10月7日 ●米英軍、アフガニスタン空爆開始 11月13日 北部同盟、首都カブ―ルを制圧 11月27日 ドイツのボンにて、米英など有志連合諸国、北部同盟を含む諸勢力の代表を国連が招集して会議開催 12月5日 暫定政府の成立、ロヤ・ジルガの招集、国際治安支援部隊 (ISAF)の成立と国連アフガニスタン支援ミッション (UNAMA)の設立が合意(ボン合意) 12月22日 ハーミド・カルザイを議長とする暫定政府・アフガニスタン暫定行政機構が成立 2002(平成14)年 1月21日 東京でアフガニスタン復興支援会議開催 6月15日 暫定行政機構に代わり、アフガニスタン・イスラム移行政府が成立。6月19日、カルザイを暫定大統領に選出 2003(平成15)年 3月20日 米英軍、イラク攻撃開始 2004(平成16)年 10月9日 アフガニスタン・イスラム共和国大統領選挙、カルザイが選出 12月 カルザイ、大統領に就任。アフガニスタン・イスラム共和国が正式に成立 2009(平成21)年 8月 大統領選挙。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。2位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月の決選投票でカルザイの再選が決定 2011(平成23)年 5月2日 ウサマ・ビンラディン、米軍の奇襲作戦によりパキスタンで死亡
アフガン駐留米軍、戦闘任務は2013年に終了へ=米国防長官 | ワールド | Reuters
2012年2月2日 17:08 JST
http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYE81K1VV20120202
[ブリュッセル 1日 ロイター]
パネッタ米国防長官は1日、アフガニスタン駐留米軍の戦闘任務を2013年の終わりまでに終了させ、アフガン治安部隊の訓練・支援任務に移行させる方針を示した。米国が戦闘任務の終了時期を明確にしたのは初めて。
パネッタ長官は、北大西洋条約機構(NATO)国防相会議に向かう途中の機内で、「われわれの目標は、2013年に移行を完了させること。2013年半ばもしくは後半にも、戦闘任務から訓練・支援任務に移行できればと考えている」と語った。
アフガン駐留米軍は、NATO主導の治安部隊13万人のうち9万人を占める。アフガンでの米兵犠牲者は2001年に米国が攻撃を始めて以来、1890人に上っている。
一方、兵士3600人が駐留するフランスは、仏兵4人がアフガン兵に殺害された事件を受けた措置として、期限を前倒しして2013年末までに駐留仏軍を撤退させる方針に転換。撤退時期をめぐっては、2010年にリスボンで開かれた首脳会議で、2014年末までに撤退を完了させ、治安権限をアフガン政府に移譲する予定になっていた。
アルカーイダ打倒「目標は手の届くところにある」 米大統領がアフガン電撃訪問 (産経新聞) - Yahoo!ニュース
産経新聞 2012年5月2日(水)11時35分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120502-00000511-san-int…(リンク切れ)
【ワシントン=犬塚陽介】オバマ米大統領は1日(日本時間2日未明)、アフガニスタンの首都カブールを予告なしに訪問した。アフガンのカルザイ大統領と会談し、訓練支援などで2014年以降も10年間、米軍駐留を可能にする戦略協力協定に調印、米国はアフガンを軍事面での優遇が可能となる「北大西洋条約機構(NATO)非加盟の主要同盟国」に指定した。
大統領はバグラム空軍基地で米国民向けにテレビ演説し、国際テロ組織アルカーイダ打倒の「目標は手の届くところにある」と指摘。「米国には任務完了への明確な道筋がある」と述べ、アフガンでの戦争が収束に向かっていることを強調した。
国際テロ組織アルカーイダの指導者、ウサマ・ビンラーディン容疑者殺害から1年を迎え、特殊部隊が殺害作戦のため出発した基地からの演説で、厭戦(えんせん)気運の広がる米国民にテロ封じ込めの成果を示した形だ。
戦略協力協定は国際治安支援部隊(ISAF)がアフガン側への治安権限移譲を完了する2014年末以降の米国によるアフガン支援を明確化。2013年中に戦闘任務を引き継ぐアフガン軍を訓練するため、アフガン国内の施設を使用し、米軍の駐留継続を認めた。
また、駐留目的は「アルカーイダの掃討」であることを強調。アフガン国内に恒久的な軍事基地を保持しないことを明文化し、他国を攻撃する拠点としないことも明確にした。米国はアフガンの経済や社会制度の改革も支援する。
NATO首脳会議閉幕、14年末アフガン撤退計画で合意 (CNN.co.jp) - Yahoo!ニュース
CNN.co.jp 2012年5月22日(火)10時51分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120522-00000013-cnn-int
米シカゴで開催されていた北大西洋条約機構(NATO)首脳会議は21日、オバマ米大統領が示した2014年末までのアフガニスタンからの国際治安支援部隊(ISAF)の撤退計画で合意に達し、2日間の日程を終えた。
NATOのラスムセン事務総長が記者団に語ったところによると、NATO主導のISAFは2013年中にアフガン側へ治安権限を移譲し、2014年には部隊が撤退する。一方、アフガニスタンの治安部隊は2014年に35万人規模まで増員し、その後は治安状況によって縮小する可能性もあるという。
NATOからは2015年以降、アフガン治安部隊に助言や訓練を提供するISAFとは別の要員が送り込まれる。撤退後のアフガン治安部隊への支援には年間40億ドル(約3200億円)の費用がかかるとみられ、一部の国は今回の会議で拠出を表明した。
アフガンへの治安権限の移譲が前倒しになったのかとの質問に、同事務総長は「当初から予定の中にあったことだ」と否定した。
オバマ大統領は、アフガン軍事作戦を「責任ある終結」に導くための「明確な行程表」ができたと述べた。一方で「これで完璧だ、さあ荷物をまとめて帰ろう、と言える最適な瞬間が来るとは思わない。これは過程であり、イラクの時と同様、時として混とんとしたものになる」との見方を示した。
会議にはアフガンのカルザイ大統領も出席した。大統領は21日、CNNとの独占インタビューで、2014年までに国内の治安を全面的に担う用意はできているかと問われ、「もちろんだ」と自信を示した。さらに「6カ月以内に国土の75%で治安を引き継ぐ計画がすでにある」と語った。
最終更新:2012年5月22日(火)12時33分
▼“経済の季節”から“軍事の季節”へ(2003年)
No.3で前述したサーカーの“60年社会周期説”“社会循環の法則”によれば、時代の主役は知識人→富裕人→軍人と移り変わってゆくと言う。
これを私が近代70年サイクルに準じて言い換えれば、政治→経済→軍事と、歴史の“主役”が、あたかも四季のように移り変わって行くのである。
前の周期で切り替わったのは、当然1931年の満州事変だったろう。
今回の周期での切り替わり地点は、当然イラク戦争となろうが、あるいは2001年に恐慌は起きず、代わりに9・11事件が起こったのだから、切り替わり地点がずれたのだろうか。
▼テロルの季節
第2次大戦前の日本の指導者たちは、陸軍と民間右翼の双方から、クーデターや暗殺などの脅威を受けることになった。
海軍青年将校によって犬養首相が暗殺された5・15事件(1932《昭和7》年5月15日)は元より、血盟団によって井上準之助元蔵相(1932年2月9日)、三井合名理事長の団琢磨(1932年3月5日)が暗殺されている。
しかし幸い、今周期の日本においては、テロは発生していない。2・26事件においては、武装した軍人が大がかりに首相や大臣を殺害して回っていたが、2008年12月には、愛犬を保健所に殺されたからとかいう動機で、一般人が元厚生省事務次官を殺し、更に十数人殺害する計画を立てていたというのだから、平成の日本は平和だと感心する次第である(無論、これは皮肉である)。
▼浜口内閣と小泉内閣・その2(1933年=2006年)
今周期の日本において、小泉首相は、前周期の浜口首相のように暗殺されず、浜口の後を受けた若槻、犬養、齋藤内閣の任期まで含めて無事勤めたのが、下の年表でよくわかる。
表5-4 浜口雄幸内閣と小泉純一郎内閣の対称 浜口雄幸内閣(若槻礼次郎・犬養穀・斉藤実内閣を通算して記述) 小泉純一郎内閣 1929(昭和4)年 7月2日 浜口雄幸内閣(第27代首相)成立 2001(平成13)年 4月26日 小泉純一郎内閣(第87代首相)成立 7月29日 浜口内閣、緊縮予算を発表 7月29日 参議院選挙。自民勝利 10月24日 ニューヨーク株式市場暴落、世界恐慌はじまる 9月11日 アメリカ同時多発テロ 11月9日 緊縮予算を閣議決定 12月29日 東シナ海にて北朝鮮工作船と海保巡視船が銃撃戦。工作船は沈没(2002年9月11日引き揚げ) 11月21日 金解禁の大蔵省令公布 2002(平成14)年 1月29日 田中真紀子外相を更迭 1930(昭和5)年 1月11日 金解禁実施 9月17日 初の訪朝、金正日総書記と首脳会談。金正日、日本人拉致を正式に認め謝罪。日朝平壤宣言採択 4月22日 ロンドン海軍軍縮条約締結(統帥権干犯問題となる) 2003(平成15)年 3月20日 イラク戦争開戦 11月14日 浜口首相、東京駅で狙撃され重傷 9月20日 自民党総裁選で再選 1931(昭和6)年 4月14日 第2次若槻礼次郎内閣(第28代首相)成立 11月9日 衆議院総選挙。自民党退潮 8月26日 浜口前首相死去 11月19日 第2次小泉内閣(第88代首相)成立 9月18日 満州事変勃発 2004(平成16)年 1月16日 イラク派遣陸上自衛隊先遣隊、日本出発 12月13日 犬養穀内閣(第29代首相)成立
初閣議で金輸出再禁止を決定5月22日 再訪朝、金正日総書記と首脳会談 1932(昭和7)年 2月9日 井上準之助前蔵相暗殺 7月11日 参議院選挙。自民退潮 3月1日 満州国建国宣言 9月27日 第2次小泉改造内閣成立 5月15日 犬養首相暗殺(5・15事件) 2005(平成17)年 8月8日 郵政改革法案が参議院で否決。首相、衆議院を解散 5月26日 斉藤実内閣(第30代首相)成立 9月11日 衆議院総選挙。自民党大勝 1933(昭和8)年 3月27日 日本、国際連盟を脱退 10月31日 第3次小泉改造内閣(第89代首相)成立 5月31日 塘沽停戦協定。満州事変終結 2006(平成18)年 1月16日 東京地検特捜部、ライブドアに強制捜査 1934(昭和9)年 7月3日 斉藤内閣、帝人事件のため総辞職 9月26日 安倍晋三内閣(第90代首相)成立
浜口と小泉の1つ目の共通点は、政府の改革による支出の削減、とりわけ公務員の削減であると言えよう。
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工事中
この部分はまだ作成中です。ご迷惑をおかけしております。
完成まで今しばらくお待ち願います。 m(__)m
●浜口内閣の改革の中身
表5-5 浜口内閣の改革の中身 波多野勝『浜口雄幸』(中公新書、1993)134-139頁、塩田潮『バブル興亡史』日経ビジネス人文庫、2001、350-351頁、366-368頁より 官吏減棒計画 1929(昭和4)年10月15日、10月22日白紙撤回 官吏減棒計画(第2次若槻内閣) 1931(昭和6)年5月16日閣議決定(1割減棒)、6月1日施行
●小泉内閣の改革の中身
道路公団民営化…2005年10月1日、日本道路公団が分割・民営化、東日本・中日本・西日本の各高速道路会社設立
郵政3事業民営化…2003年4月1日公社化、2007年10月1日民営化
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宮尾攻は「七十年の時を経て蘇る浜口雄幸の亡霊」(「文芸春秋」2001年10月号緊急増刊号)において、浜口雄幸内閣と小泉純一郎内閣について、
「この2つの政権は、70年間という歳月の隔たりを越えて類似していた」
と指摘している。
「昭和恐慌と平成恐慌 庶民と指導者の深層心理」(「週刊東洋経済」2001年11月5日号臨時増刊号)でも、浜口内閣と小泉内閣について類似点が指摘されている。
松本和男『2003年日米恐慌』(中公新書ラクレ、2001)でも、
「小泉内閣の経済政策『聖域無き構造改革』も戦前、昭和恐慌時に浜口内閣が行ったのと同じ徹底したデフレ政策だ」(111頁)
と指摘されている。
金子勝『長期停滞』ちくま新書、2002、60〜62頁でも、浜口内閣と小泉内閣について類似点が指摘されている。
読売新聞(2001年9月13日)の「似ている『70年前』」でも、浜口内閣と小泉内閣について類似点が指摘されている。
浜口と小泉の次の共通点は、一つ目の共通点とも当然関連性があるが、「支出の削減」の責任者でもある財政担当の大臣の知名度の高さにあると言えよう。
浜口内閣における“井上財政”は、小泉内閣における“竹中財政”と対称されるだろう。浜口内閣の財政の担当大臣は井上準之助1人しかいなかったが、小泉内閣では、財政の担当大臣は、財務大臣、金融担当大臣、経済財政担当大臣の3つの役職がある。しかし財務大臣の名から“塩川財政”“谷垣財政”と命名して、イメージの代表をさせるには無理がある。やはり最も目立っているのは竹中平蔵の方だろう。
竹中は2001年4月に発足した第1次小泉内閣において経済財政担当大臣に就任した。2002年9月に発足した第1次小泉改造内閣では金融担当大臣も兼務し、2005年10月に発足した第3次小泉内閣では横滑りして総務大臣に就任した。
吉川元忠『経済敗走』(ちくま新書、2004)は、竹中はアメリカのハゲタカファンドの手先だと厳しく批判している(187頁〜)。
表5-6 昭和戦前の有名な人物の財政と外交 人物・役職 在任期間 井上準之助蔵相・井上財政 1923年9月2日〜12月29日(山本内閣) 1929年7月2日〜1931年12月11日(浜口内閣) 高橋是清蔵相・高橋財政 1927年4月20日〜6月2日(田中内閣) 1931年12月13日〜1934年7月3日(犬養・齋藤内閣) 1934年11月27日〜1936年2月26日(岡田内閣) 幣原喜重郎外相・幣原外交 1924年6月11日〜1927年4月17日(加藤・若槻内閣) 1929年7月2日〜1931年12月11日(浜口内閣)
最も、浜口・若槻内閣と犬養内閣は、前者が金輸出を解禁し、後者が再禁止するなど、正反対の財政政策を取ったのではあるのだが。
表5-7 近年の有名な人物の財政と外交 人物・役職 在任期間 宮沢喜一蔵相→財相・宮沢財政 1998年7月30日〜2000年4月5日(小渕内閣)
2000年4月5日〜2001年1月6日(森内閣) 2001年1月6日〜2001年4月26日 省庁再編により財務大臣に(森内閣) 竹中財政 2001年4月26日〜2002年9月30日 経済財政担当大臣(第1次小泉内閣) 2002年9月30日〜2004年9月27日 金融担当大臣も兼務(第1次小泉改造内閣) 2004年9月27日〜2005年10月31日 郵政民営化担当も兼務(第2次小泉内閣・第2次小泉改造内閣) 2005年10月31日〜2006年9月26日 総務大臣も兼務(第3次小泉内閣)
▼ロシア大統領選挙(1933年=2004年)
(■以下『現代用語の基礎知識2000/2001/2004』、山内聡彦『NHKスペシャルセレクション プーチンのロシア』NHK出版、2003を参考にした)
ウラジミール・プーチンは1952年10月7日、レニングラード(現サンクトペテルブルク)に生まれた。大学卒業後KGBに入り、東ドイツで冷戦終結を迎えた。1991年にKGBを辞職し、故郷サンクトペテルブルクの副市長に就任した。1996年にクレムリンに引き抜かれた。1998年7月、FSB(連邦保安局。KGBの後身)の長官に就任した。
表5-8 プーチン、大統領への道 1999年 8月9日 プーチンFSB長官、首相に就任 12月31日 エリツィン大統領突然辞任、プーチンが大統領代行に昇格 2000年 3月26日 大統領選挙を繰上げ実施。プーチンが当選 5月7日 プーチン、大統領に就任 2004年 3月14日 大統領選挙。プーチン再選 …… 2008年 3月2日 大統領選挙。メドベージェフを候補とし、自身は首相に復帰 2012年 3月4日 大統領選挙。メドベージェフを首相とし、自身は大統領に復帰
エリツィンとプーチンの関係は、“高齢な指導者”、そして“若く有能な指導者”という点において、ドイツのヒンデンブルクとヒトラーの関係を彷彿とさせると、わたくしは思う。
ちなみにヒトラーは1933年の首相就任時は44歳(1889年4月20日生)、プーチンは1999年8月の首相就任時は46歳(1952年10月7日生)だった(さらにちなみにヒンデンブルクは1847生で、1925年の大統領就任時は78歳。エリツィンは1931年生で、1992年3月の大統領就任時は61歳)。
しかし、プーチンとヒトラーには、決定的な違いがある。
ヒトラーは自分自身でナチ党を率いて、大統領の権力に急追(きゅうつい)し、自分で権力の座を奪ったのである。
一方のプーチンは、エリツィンに見込まれてクレムリン内で抜擢され、エリツィンから大統領職を禅譲されたのである。プーチンはサンクトペテルブルク副市長時代にも選挙の洗礼は受けていないと思うので、首相就任前は政治家ではなく、広義の官僚だったと言ってよさそうである。
表にまとめると、以下のようになるか。
表5-9 ヒトラー(ドイツ)とプーチン(ロシア)の共通点と相違点 アドルフ・ヒトラー ウラジミール・プーチン 祖国が大戦に敗北 第1次大戦に敗北(1918) 米ソ冷戦に敗北(1989) 大戦後の国体転換 第2帝政から共和制に ソ連崩壊(1991) 大戦後の経済危機 ハイパーインフレ(1923〜) ハイパーインフレ(1992〜) 高齢な先代の大統領 ヒンデンブルク(在任1925〜34) エリツィン(在任1992〜99) 権力への道 ナチ党党首に(1921)
総選挙で勝利(1930、32)クレムリン入り(1996)
FSB(連邦保安局)長官に就任(1998)またもや経済危機 金融恐慌(1931〜) ロシア通貨危機(1998) 首相就任 1933年 1999年 首相就任時の若さ 44歳(1889生) 46歳(1952生) 首相から大統領に 1934年(総統を名乗る) 1999年大晦日大統領代行、2000年大統領選に当選 高齢な先代の大統領死去 ヒンデンブルク死去(1934) エリツィン死去(2007)
■この項の参考文献
ロシア2頭体制 - Yahoo!ニュース(http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/medvedev_and_putin/)
▼日本経済の復調(1931〜1935年=2003〜2007年)
No.4で前述したように、日経平均株価は2003年4月28日、バブル崩壊後の最安値である7607円88銭を付けた。小泉の首相就任日(2001年4月26日)の終値は13973円03銭だったので、さらにその半分にまで下落してしまったことになる。バブル時の史上最高値(38915円87銭。No.1を参照)からの下落率は実に80.45パーセントとなった。
その後、日経平均は下の表5-9のように、ようやく反発していった。
表5-10 日経平均株価の終値一覧(バブル崩壊後最安値からの反発の過程)(表4-9の続き) ●反発第1波(吉川元忠『経済敗走』19〜20頁・112頁より) 年 月日 日経平均株価の終値、その他の出来事 2003(平成15)年 3月11日(火) TOPIX、770.62ポイント(バブル崩壊後の最安値) 4月28日(月) 日経平均、7607円88銭(バブル崩壊後の最安値。史上最高値・1989年12月29日からの下落率▼80.45%) 6月11日(水) 長期金利、史上最低の0.43%を記録 6月17日(火) 9033円00銭(2002年12月4日以来終値で9000円台回復) 8月18日(月) 10032円97銭(2002年8月26日以来終値で10000円台回復) 9月18日(木) 11033円32銭(2002年6月13日以来終値で11000円台回復) 2004年 4月6日(火) 12079円70銭(2001年8月8日以来終値で12000円台回復) ●反発第2波 2005(平成17)年 8月8日(月) 郵政民営化法案、参議院で否決され衆議院解散。日経平均、上昇を始める 9月11日(日) 衆議院総選挙。自民党大勝 9月20日(火) 13196円57銭(2001年6月22日以来終値で13000円台回復) 9月21日(水) 東証、1日の取引高が史上最高の37億株に達する 11月4日(金) 14075円96銭(2001年5月23日以来終値で14000円台回復) 12月1日(木) 15130円50銭(2000年12月13日以来終値で15000円台回復) 12月26日(月) 16107円67銭(2000年10月5日以来終値で16000円台回復) 2006(平成18)年 1月16日(月) ライブドア、東京地検特捜部の家宅捜査を受ける。東証急落(ライブドア・ショック) 3月9日(木) 日銀、2001年3月以来継続してきた量的金融緩和政策を解除 3月30日(木) 17045円34銭(2000年8月29日以来終値で17000円台回復) 7月14日(金) 日銀、ゼロ金利政策を解除。短期金利(政策金利である無担保コール翌日物金利)の誘導目標をゼロ%から年0.25%に、公定歩合も現行の年0.1%から0.4%に引き上げ 2007(平成19)年 2月21日(水) 日銀、短期金利の誘導目標を年0.25%から0.5%に引き上げ TOPIX終値1787.23ポイント(1991年11月15日の水準まで回復) 2月22日(木) 18108円79銭(2000年5月8日以来終値で18000円台回復) 以下、表5-18に続く
過去の日経平均の推移が気になった方々は、日本経済新聞社の公式サイトである日経平均プロフィールを御覧頂きたい。1949年5月16日に東京証券取引所が戦後初めて取引を再開して以降、現在までの日経平均株価の終値を検索出来る。
この動きは、浜口〜第2次若槻内閣の時の株価の動きとそっくりだと言える。
戦前の代表的な株価の指数である勧銀指数が最安値を付けたのは、若槻内閣が退陣する1か月前の1931年11月である(『2003年日米恐慌』59頁、96頁より)。12月に犬養内閣が発足し、金輸出を再禁止すると、株価は急騰しているのである。
長期金利は2003年6月11日に、史上最低の0.43%を記録した後反発している。
満州事変で日本の景気が回復したのはなぜなのだろうか?
兵頭二十八『「戦争と経済」のカラクリがわかる本』(PHP研究所、2003)79頁には、
「満州事変当時のように、敵国の軍隊が弱すぎて、平時の実弾演習規模の作戦で短期に勝ってしまうようなミニ戦争で済んだればこそ、結果的に『調整インフレ』になった」
とある。
満州事変時とは違う2003〜2006年において、日本の景気が回復しているのはなぜなのだろうか?
アメリカで大恐慌が起こっていないので、アメリカへの輸出で日本経済が支えられているためだろう。
1929年とは違い、アメリカで大恐慌が起こっていないのは何故?
イラク戦争で景気が下支えされているためなのだろうか?
広瀬隆氏は『アメリカの巨大軍事産業』(集英社新書、2001)において、
「(※管理人註、アメリカの軍需メーカーの製品は)他社製品をしのぐ圧倒的な性能を発揮して、次の年度におけるペンタゴン受注につなげる必要がある。しかし同時に戦争が長引いて、適度に軍需製品が消費されなければならない。このふたつの条件は、戦場では相反する。他国を含めた他社より高性能の兵器は、戦闘を短期間に終らせてしまうからだ」(179頁)
と述べている。
戦争が起きるのは三菱や三井といった財閥のせいだ、またはボーイングやロッキード・マーティンのような武器商人のせいだ、あるいはユダヤの国際金融資本のせいだ……などという旧態依然の説を振り回している御仁にとっては、こんな程度の浅い説明がせいぜい限界なのであろう。
しかし、戦争を忌み嫌ったりせず、論理的に戦争を解剖しようとしている人達は、既に彼らを飛び越えて、次のステップに進んでいる。
例えば兵頭氏の『「新しい戦争」を日本はどう生き抜くか』(ちくま新書、2001)によれば、
「ベトナム戦争のような長期戦は、日本で公共土木工事に財投を突っ込むのと同じことで、大国経済にダメージを与える。なぜなら、有効需要を生み、且つ国家の総合闘争力に寄与するハイテク分野への投資額が、しわ寄せを食って減らされるからである。逆に言うと、コソヴォ爆撃のように短節なハイテク攻撃を断続させるのみであれば、戦争にも経済にもプラスなのだ」(199頁)
とある。
「週刊オブイェクト」の2008年4月17日付けの記事「軍需産業は戦争を欲していない」にも、
「軍需産業は戦争を欲していません、少なくとも対テロ戦争については。何故なら、兵器が売れなくなるからです」
「目先の戦争で必要な消耗品や作戦経費のために予算を食われてしまい、その分だけ大手防衛関連メーカーが得意とする大型正面装備に予算が回ってこなくなる」
とある。
▼短命に終わった安倍・福田政権
自民党総裁の任期満了で首相の任を終えた小泉純一郎の後継として、2006年9月、安倍晋三が自民党総裁と内閣総理大臣に選出された。
前述したように、小泉首相は、浜口雄幸、若槻礼次郎、犬養毅、齋藤実の4人の首相の任期を通して務めたことになる。それならば、安倍内閣は、齋藤実の後任である岡田啓介首相の任期(1934年7月〜1936年2月、1年7か月)は、少なくとも首相として務める事が出来るはずだったのだが……。
一方で、こんなデータがある。戦後の日本の首相のうち、長期政権の後継となった政権は、誰一人として前任者の在職日数を上回ることが出来ずに終わっているのである。
表5-11 戦後日本の長期政権の後継は短命で終わる法則 長期政権となった首相と在職日数 後継の首相と、その末路・在職日数 吉田茂
(第45、48-51代首相)2616日(通算) → 鳩山一郎 日ソ国交回復を果たし辞任 745日 佐藤栄作
(第61-63代首相)2798日 → 田中角栄 金権政治への批判により総辞職、後にロッキード事件で逮捕 886日 中曽根康弘
(第71-73代首相)1806日 → 竹下登 リクルート事件で総辞職 576日 小泉純一郎
(第87-89代首相)1980日 → 安倍晋三 参院選敗北のため総辞職 366日
これに関連するのだが、村田晃嗣『プレイバック1980年代』(文春新書、2006)には、
『以下の項目を読んで、皆さんは何を連想されるだろうか。
(1)現職の首相が病死した。
(2)その結果、「想定外」の人物が首相になった。
(3)日米同盟が大幅に強化された。
(中略)
何もここ数年の出来事について述べようというのではない。いずれも一九八〇年代の出来事なのである。
(1)は小淵恵三首相ではなく、大平正芳首相のことである。
(2)も森喜郎首相ではなく、鈴木善幸首相のことである。
(3)の主役はジョージ・W・ブッシュ大統領と小泉純一郎首相ではなく、ロナルド・レーガン大統領と中曽根康弘首相である。両者の関係は、当時「ロン・ヤス」関係と称された』(6‐7頁)
とある。
ということは、1980年代と2000年代の政治状況は、
表5‐12 1980年代と2000年代の日本の政治状況の対称 共通する項目 1980年代 2000年代 首相の急死 大平正芳(在任1978〜80) 小淵恵三(1998〜2000) 想定外の首相、短命政権 鈴木善幸(1980〜82) 森喜郎(2000〜01) 長期政権、米大統領との盟友関係 中曽根康弘(1982〜87) 小泉純一郎(2001〜06) 長期政権と思われたが短命に終わる 竹下登(1987〜89) 安倍晋三(2006〜07) 参議院選挙で大敗し辞任 宇野宗佑(1989) というふうに対称されることになるのだろうか。
2007年7月29日の参議院選挙において、自民党は37議席という記録的な惨敗を喫してしまった。安倍首相は内閣改造によって事態を乗り越えようとしたが、結局9月12日に辞任を表明した。「長期政権後の政権は短命政権となる」というジンクスは今回も当てはまってしまったのである。
ウィキペディアの「主要国首脳会議」には、「日本で開催される年のジンクス」という項がある。
「日本で開催される年は、必ず解散総選挙が行われている(1979年東京の大平首相・1986年東京の中曽根首相・1993年東京の宮沢首相・2000年沖縄の森首相)。総選挙が行われる理由として「『国際的に注目を浴び、イメージが上昇したところで与党は選挙をやりたいと考えるから』とされている」のだという。
表にすると以下のようになるか。
表5-13 日本でのサミット開催と、衆議院解散・総選挙が連動している法則 回数 年 日本の首相 サミット開催地と開催日 衆議院総選挙 第5回 1979(昭和53)年 大平正芳 東京、6月28日〜29日 → 10月7日 第12回 1986(昭和61)年 中曽根康弘 東京、5月4日〜6日 → 7月6日 第19回 1993(平成5)年 宮沢喜一 東京、7月7日〜9日 → 7月18日 第26回 2000(平成12)年 森喜郎 沖縄、7月21日〜23日 ← 6月25日 第34回 2008(平成20)年 福田康夫(サミット時)→麻生太郎(総選挙時) 北海道・洞爺湖、7月7日〜9日 → 2009年8月30日
過去の例を見れば、サミットの開催後に解散・総選挙となったケースばかりだ。そもそもサミット前に解散・総選挙となったのは2000年の一例のみなのである。
……などと、以上を2008年3月15日に執筆したのだが、2008年9月1日に福田首相は辞意を表明し、後任の自民党総裁、日本国首相には麻生太郎氏が就任した。
表5 ‐13に追加するなら、以下のようになるか。
表5‐14 1980年代と2000年代の日本の政治状況の対称 共通する項目 1980年代 2000年代 首相の急死 大平正芳(1978〜80) 小淵恵三(1998〜2000) 想定外の首相、短命政権 鈴木善幸(1980〜82) 森喜郎(2000〜01) 長期政権、公営事業の民営化、米大統領との盟友関係 中曽根康弘(1982〜87) 小泉純一郎(2001〜06) 好景気(表7-10も参照) 1986年11月〜1991年2月
(バブル景気)2002年1月〜2007年10月
(実感なき景気回復)長期政権と思われたが短命に終わる 竹下登(1987〜89) 安倍晋三(2006〜07) 参議院選挙で大敗し辞任 宇野宗佑(1989) スキャンダル リクルート事件(1988年6月〜) ライブドア事件(2006年1月〜)
堀江メール問題(2006年4月)日本の株価の最高値 1989年12月 2007年7月 不安定政権 海部俊樹(1989〜91) 福田康夫(2007〜08) 自民党最後の政権 宮沢喜一(1991〜93) 麻生太郎(2008〜09) 日本の株価の最安値 1992年8月 2009年3月 アメリカで共和党から民主党に政権交代 1993年1月、ブッシュ父→クリントン 2009年1月、ブッシュ子→オバマ 自民党、衆議院選挙で敗北 1993年7月 2009年8月 野党が政権を獲得し自民党下野 1993年8月 2009年9月
中曽根と小泉の両長期政権は共に、首相在任中の最後の衆議院総選挙で大勝している。
確かに参議院選挙では敗北したが、リクルート事件後の最初の衆議院総選挙(1990年2月)では、自民党は勝利しているのである。
しかし2009年において、自民党は、2006年の大勝後の最初の総選挙で敗北してしまった。このことは、1990年代よりも、2000年代の自民党を取り巻く環境が、より一層厳しくなっていた事を示しているのだろう。
…さらに管理人の妄想を披露させていただけるのならば、次の年表もご覧頂きたい。
表5‐15 各年代の日本の政治状況の対称 共通する項目 1950〜70年代 1980年代 2000年代 首相の急死 石橋湛山(首相在任1956〜57)
※病気辞任大平正芳(首相在任1978〜80) 小淵恵三(首相在任1998〜2000) 棚からぼた餅で首相に就任、失言、短命政権 岸信介(1957〜60)
池田勇人(1960〜64)
「貧乏人は麦を食え」
鈴木善幸(1980〜82)
日米安保条約は軍事同盟ではないと発言
森喜郎(2000〜01)
「神の国」発言
長期政権、公営事業の民営化、米大統領との盟友関係 佐藤栄作(1964〜72) 中曽根康弘(1982〜87) 小泉純一郎(2001〜06) 好景気(表7-10も参照) 高度経済成長 1986年11月〜1991年2月
(バブル景気)2002年1月〜2007年10月
(実感なき景気回復)長期政権と思われたが短命に終わる 田中角栄(1972〜74) 竹下登(1987〜89) 安倍晋三(2006〜07) 参議院選挙で大敗し辞任 なし 宇野宗佑(1989) スキャンダル ロッキード事件(1976年2月〜) リクルート事件(1988年6月〜) ライブドア事件(2006年1月〜)
堀江メール問題(2006年4月)日本の株価の最高値 1974年10月 1989年12月 2007年7月 景気悪化 第1次オイルショック(1973年10月) バブル崩壊(1990年2月) サブプライムロー ン不況(2008年9月〜) 不安定政権 三木武夫(1974〜76) 海部俊樹(1989〜91) 福田康夫(2007〜08) 自民党最後の政権 宮沢喜一(1991〜93) 麻生太郎(2008〜09) 日本の株価の最安値 ? 1992年8月 2009年3月 アメリカで共和党から民主党に政権交代 1976年11月、フォード→カーター 1992年11月、ブッシュ父→クリントン 2008年11月、ブッシュ子→オバマ 自民党、衆議院選挙で敗北 1976年12月 1993年7月 2009年8月
■参考サイト・・・
日経編集委員・清水真人氏のコラム「NET EYE プロの視点 首相官邸コンフィデンシャル」2008年5月28日「福田康夫と「任期満了の衆院選」の虚実」(リンク切れ)
▼日本の好景気はいつまで続くか
「▼日本経済の復調」の項でも述べたが、日本の好景気はいつまで続くのだろうか?
まずは、対称されるべき戦前の経済史はどのようなものだったのか、概観していきたい。
有沢広己監修『昭和経済史 上』(日経文庫、1994)には、
「いまでも、戦前と戦後とを数量的に比較しようとするとき昭和九(※管理人註、1934)ー十一(※管理人註、1936)年平均を基準にして、本年の物価はその何倍、生産は何倍というような比較が使われるが、それも戦前に置ける経済活動がピークに達した時点であり、だれもが『戦前』の代表的な時代として回想する時だったからである」(166-167頁)
とある。
塩田潮『バブル興亡史』(日経ビジネス人文庫、2001)には、
「七(※管理人註、昭和7・1932)年の後半から景気が回復に向かい始めた。高橋(※管理人註、是清蔵相)の積極主義の効果が徐々に現れてきたのだ。
物価は輸入品、輸出品とも七年六月を底に上昇に転じた。円下落の影響もあって、輸出も七年後半から好調になる。(中略)
繊維を中心とした輸出産業の競争力回復は円安だけが原因ではなかった。大正バブルの崩壊以来、推し進めてきた合理化の効果も大きかった。
八年に入ると、景気回復は誰の眼にも明らかとなった。輸出の増加が続く。綿布輸出量はイギリスを抜いて世界第一位を達成した。人造綿布も生産高が世界第二位となった。(中略)
好調な輸出は九、十年と続いた。十年には綿布輸出量が史上最高を記録した。日本の貿易収支も大正バブル崩壊以前の大正八年以来、十七年ぶりに黒字に転換した。昭和十年は日本経済にとって、第二次大戦以前で『最良の年』と呼ばれた」(391-392頁)
とある。
兵頭二十八『「戦争と経済」のカラクリがわかる本』(PHP研究所、2003)にも、
「昭和7年から昭和11年、つまり支那事変勃発直前までは、比較的にわずかな物価上昇率で日本の経済は一番安定していた」(79頁)
とある。
林どりあん『歴史が教える相場の道理』(日経ビジネス人文庫、2001)には、
「日本の株価は昭和十年(※管理人註、1935年)九月ごろから反騰し始めていた。イタリアのエチオピア侵攻(※管理人註、1935年10月)があって、新東短期は百三十円台から急騰して、百七十円台に乗せていた。戦争は買いだ、といった単純な相場人気である」(37頁)
「二月二十五日(※管理人註、昭和11・1936年。2・26事件勃発の前日)の新東短期の終値は、百五十九円八十銭であったが、三月十日の再開時には百四十六円の寄り付きでそのまま急落して、百三十七円三十銭まで下げた」(36頁)
とある。
この景気回復に水を差した最初の(経済的な)出来事は、2・26事件で総辞職した岡田内閣に代わり成立した広田内閣で蔵相に就任した馬場^一の進めた、いわゆる馬場財政だった。
『昭和経済史 上』には、
『蔵相就任の当日の三月九日、馬場はまず、公債漸減政策の放棄、増税、低金利政策の三つを発表、高橋財政の路線の変更を打ち出した。財界はこの報におびえ、株式市場は惨落した。(中略)国債の利下げを行い、つづいて日本銀行の公定歩合の引き下げを求めて国債の大量発行の条件を準備したのである。いわゆる「馬場財政」の骨格はこの時ほぼ明らかになったといえよう』(190頁)
とある。
さらに、『歴史が教える相場の道理』には、
『一九三七年(昭和十二年)になると、太平洋戦争の序曲になる日中戦争が始まる。これ以降、日本経済は次第に自由市場を閉ざし、統制経済・戦時経済に入って行く。増税はもちろん、臨時資金調整法(※管理人註、1937年9月10日公布)など力づくの法案が通り、金融閉塞基調となる。株価は嫌気して全面崩落の兆しが出た』(195頁)
『一九三八年(昭和十三年)「国家総動員法」が公布されるや、同法に含まれる配当制限などを嫌気して、市況は軟化してゆく』(196頁)
とある。
臨時資金調整法については、『昭和経済史 上』207-208頁においても触れられている。
関連する年表は以下のようになるか。
表5‐16 戦前の歴史・統制経済への流れ 1937、6、4 第1次近衛文磨内閣成立
8、13 第2次上海事変起こる(支那事変開戦)
9、10 臨時資金調整法公布
1938、4、1 国家総動員法公布
馬場財政と対称される出来事は、消費税率のアップだろうか?
現在の日本では、消費税率のアップがいつ実施されるのかによっても、景気の動向が大きく左右されるように思われる。
消費税は、1989(平成元)年4月に税率3パーセントとして導入された。1997(平成9)年4月に5パーセントに増税された。これが97年以降の景気の失速につながったと見ている向きは多い。
ここ最近の日本の政治史を振り返ってみるに、消費税と関わっている参議院選挙において、自民党は敗北し続けているのである。
表5‐17 消費税と参議院選挙における自民党の敗北との関係 消費税 参議院選挙 結末 1989年4月 導入(3%) (3ヵ月後)→ 1989年7月 自民党大敗、宇野首相辞任 1997年4月 5%に引上げ (1年3ヵ月後)→ 1998年7月 自民党大敗、橋本首相辞任
なので、いつ消費税の引上げが行われるのかは不明だが、引き上げられた場合は、2010年7月、もしくは2013年7月のどちらかの参議院選挙において、自民党が敗北する可能性が高そうである。
…と、2007年3月にここまで書いたのだが、2008年10月30日、麻生首相は記者会見を行い、3年後に景気が回復していた場合という条件を付けながら、その時点での消費税の引上げの意向を表明した。3年後 、すなわち2011年のことになる。
しかしこれも、民主党政権が誕生したことにより、白紙撤回されたといってよいだろう。しかも民主党は「民主党政策集 INDEX2009」(リンク切れ)の「税制」(リンク切れ)において、
「消費税に対する国民の信頼を得るために、その税収を決して財政赤字の穴埋めには使わないということを約束した上で、国民に確実に還元することになる社会保障以外に充てないことを法律上も会計上も明確にします」
「具体的には、現行の税率5%を維持し、税収全額相当分を年金財源に充当します」
「税率については、社会保障目的税化やその使途である基礎的社会保障制度の抜本的な改革が検討の前提となります。その上で、引き上げ幅や使途を明らかにして国民の審判を受け、具体化します」
と述べている。
ということは、少なくとも民主党が政権に就いている4年間(?)は、消費税の引き上げはないと見てよいのだろうか。
話を2008年に戻す。
「▼日本経済の復調」で前述した続きになるわけだが、日本でもアメリカでも、2007年中期以降、景気は悪化してきた。主として、サブプライムローン問題によるアメリカ経済の悪化が大きく影響していると見られている。
表5-18 日経平均株価の終値一覧(表5-10の再掲と追加。バブル崩壊後最安値からの反発の過程) ●反発第1波(この「反発第1波」の定義は吉川元忠『経済敗走』19〜20頁・112頁より) 年 月日 日経平均株価の終値、その他の出来事 2003(平成15)年 3月11日(火) TOPIX終値、770.62ポイント(バブル崩壊後の最安値) 4月28日(月) 日経平均、7607円88銭(バブル崩壊後の最安値。史上最高値・1989年12月29日からの下落率▼80.45%) 6月11日(水) 長期金利、史上最低の0.43%を記録 6月17日(火) 9033円00銭(2002年12月4日以来終値で9000円台回復) 6月18日(月) 10032円97銭(2002年8月26日以来終値で10000円台回復) 9月18日(木) 11033円32銭(2002年6月13日以来終値で11000円台回復) 2004年 4月6日(火) 12079円70銭(2001年8月8日以来終値で12000円台回復) ●反発第2波 2005(平成17)年 8月8日(月) 郵政民営化法案、参議院で否決され衆議院解散。日経平均、上昇を始める 9月11日(日) 衆議院総選挙。自民党大勝 9月20日(火) 13196円57銭(2001年6月22日以来終値で13000円台回復) 9月21日(水) 東証、1日の取引高が史上最高の37億株に達する 11月4日(金) 14075円96銭(2001年5月23日以来終値で14000円台回復) 12月1日(木) 15130円50銭(2000年12月13日以来終値で15000円台回復) 12月26日(月) 16107円67銭(2000年10月5日以来終値で16000円台回復) 2006(平成18)年 1月16日(月) 堀江貴文社長率いるライブドア、東京地検特捜部の家宅捜査を受ける。日経平均急落(ライブドア・ショック) 3月9日(木) 日銀、2001年3月以来継続してきた量的金融緩和政策を解除 3月30日(木) 17045円34銭(2000年8月29日以来終値で17000円台回復) 7月14日(金) 日銀、ゼロ金利政策を解除。短期金利(政策金利である無担保コール翌日物金利)の誘導目標をゼロ%から年0.25%に、公定歩合も現行の年0.1%から0.4%に引き上げ 2007(平成19)年 2月21日(水) 日銀、短期金利の誘導目標を年0.25%から0.5%に引き上げ TOPIX終値1787.23ポイント(1991年11月15日の水準まで回復) 2月22日(木) 18108円79銭(2000年5月8日以来終値で18000円台回復) 7月9日(月) 18261円88銭(反発第2波の最高値)2003年4月28日のバブル崩壊後最安値からの上昇率?.?% 以下、表8-11に続く 過去の日経平均の推移が気になった方々は、日本経済新聞社の公式サイトである日経平均プロフィールも御覧頂きたい。1949年5月16日に東京証券取引所が戦後初めて取引を再開して以降、現在までの日経平均株価の終値を検索出来る。
▼アメリカの好景気はいつまで続くか
上述した日本の株価の動きは、アメリカの株価ともある程度連動していたのだろうか?
No.4でも前述したように、ニューヨーク・ダウは1929年10月の大暴落以降、2年半に渡って下落を続け、1932年7月8日に41ドル22セントを付けて大底を打った。
その後ダウはようやく反騰し、1937(昭和12)年3月には、恐慌後の最高値である194ドル40セントを付けた。
ところが、米大統領ルーズベルトは比較的積極的な財政政策を行っていたのに、1936(昭和11)年11月に大統領に再選されたのち、1937年度予算では再び財政均衡主義、現在で言うところの財政再建を目指したために緊縮予算を編成したのである。
まだ景気の回復具合は弱かったのに、金融政策の引き締めと財政支出の削減が行われたのだから、アメリカ経済はひとたまりもなかった。1937年8月以降景気は急降下し、翌1938(昭和13)年6月までのわずか10か月間で生産活動は3分の2まで減少した。自動車の販売も1937年秋から翌1938年半ばにかけて5分の2に、自動車の生産も3分の1まで減少した。
株価も下落した。1938年3月、ダウは98ドル95セントの2番底を付けた。1937年3月の戻り高値から、1年間で半値にまで下落してしまったのである。
このような短期間の急激な落ち込みは「恐慌中の恐慌」と呼ばれ、また政権の人為的なミスが恐慌を招いたということから「ルーズベルト不況」とも呼ばれたそうである(以上、山田伸二『世界同時デフレ』東洋経済新報社、1998、99-100頁、110-118頁より)。
では、現在のアメリカの好景気はいつまで続くのだろうか。
上記の1937年〜38年のケースとも関連するが、ハリー・S・デント・ジュニア、神田昌典・監訳、飯岡美紀・訳『バブル再来』ダイヤモンド社、2006、104-108頁には、「4年周期の大統領サイクル」として、4年に一度のアメリカ大統領選挙と、株価の関連性が紹介されている。それによると、特に第2次大戦後、大統領の任期1年目の後半(ここ数十年は2年目の初めないしは半ば)から2年目の後半、即ち中間選挙までは、相場は下落傾向にある。そして、2年目後半から3年目後半にかけては力強い上昇が見られるのだという。
また、テレビ東京の経済番組「モーニングサテライト」では、数値を挙げて、この4年周期の大統領サイクルを説明していた。
表5-19 4年周期の大統領サイクル
(「モーニングサテライト」2006年7月5日放送より)1833年〜2004年のニューヨーク・ダウ上昇率 ●大統領の任期1年目 +2% 2年目 +4% 3年目 +10% 3年目 +6% ●大統領選挙前年のダウの上昇率 1943年 +13.8% (この間16回の選挙全て上昇) 1999年 +25.2% 2003年 +25.3% 2007年 ? ……と、2007年3月にここまで書いたのだが、それ以降どういう経過を辿ったのかは、No.8で述べたい。
▼アメリカのサブプライムローン問題に端を発した金融危機(2008年)
表5-20 ダウ、ナスダック、金利の最高水準 2006年 6月29日(木) 公定歩合とFF金利は各0.5%引き上げて各6.0%、6.5%に
(各金利の最高値、2004年6月からの毎回の利上げは今回で終了)2007年 9月18日(火) 公定歩合は1.0%、FF金利は0.5%引き下げて各5.25%、4.75%に
(2003年6月以来4年3カ月ぶりの利下げ)10月9日(火) ニューヨーク・ダウ終値、14164ドル53セント。終値での史上最高値
表5-20に示した2007年の秋を最高水準にして、ダウとナスダックは下落し始める。翌2008年の9月になるとアメリカ経済には、リーマンブラザーズの破綻など、本格的にサブプライムローン問題の影が落ちて来るのである。
表5-21 2007年〜、アメリカのサブプライムローン問題に端を発した金融危機 年 月日 特記事項 2007(平成19)年 7月9日(月) 日経平均株価終値、18261円88銭(2003年4月28日に付けたバブル崩壊後の最安値7607円88銭からの反発の最高値) 7月19日(木) ニューヨーク・ダウ終値、14000ドル41セント。史上初めて終値で14000ドル台突入 10月9日(火) ダウ終値、14164ドル53セント。史上最高値 2008(平成20)年 9月7日(日) 米政府、政府系住宅金融機関(GSE)の連邦住宅抵当金庫(ファニーメイ)と連邦住宅金融抵当公庫(フレディマック)を政府の管理下に置くと発表 9月14日(日) 米大手証券会社のリーマン・ブラザーズ、経営破綻 9月24日(水) 麻生太郎内閣(第92代首相)成立 9月29日(月) アメリカ合衆国下院が緊急経済安定化法案を大差で否決。
ダウ終値、10365ドル45セント(▼777ドル68セント)。下落幅史上最大、下落率▼6.6%10月3日(金) 日経平均終値、10938円14銭(2005年5月18日以来、約3年4か月ぶりに終値で11000円台割れ) 10月8日(水) 日経平均終値、9203円32銭(▼952円58銭)。下落幅史上18位、下落率▼9.3%で史上3位 10月9日(木) 米国FOMC、FF金利と公定歩合を利下げ
ダウ終値、8579ドル19セント(▼678ドル91セント)。下落率▼7.3%10月10日(金) 日経平均終値、8276円43銭(▼881円06銭)。下落率▼9.62%で史上3位。
大和生命保険経営破綻10月13日(月) ダウ終値、9387ドル42セント(△936ドル42セント)。上昇幅史上1位、上昇率△11.0% 10月15日(水) ダウ終値、8577ドル91セント(▼733ドル08セント)。下落幅史上2位、下落率▼7.8% 10月16日(木) 日経平均終値、8458円45銭(▼1089円02銭)。下落幅史上2位、下落率▼11.41%で史上3位 10月24日(金) 日経平均終値、7649円08銭(▼811円90銭)。下落率▼9.60%で史上5位 10月27日(月) 日経平均終値、7162円90銭(▼486円18銭)。下落率▼6.36%。2003年4月28日(7607円88銭)以来、終値でバブル崩壊後の最安値を更新 10月28日(火) ダウ終値、8577ドル91セント(△889ドル35セント)。上昇幅史上2位、上昇率△10.8% 10月29日(水) 米国FOMC、FF金利と公定歩合を利下げ
日経平均終値、8211円90銭(△589円98銭)。上昇率△7.74%で史上7位10月30日(木) 日経平均終値、9029円76銭(△817円86銭)。上昇率△9.96%で史上4位 11月4日(火) 米大統領選挙。民主党のバラク・オバマが初当選 11月15日(土) 日米など先進国と、中国、インド、ブラジルなど新興国など世界の20カ国・地域の首脳と、国際通貨基金(IMF)や世界銀行などの国際機関のトップが参加して金融危機について話し合う緊急サミット、米ワシントンで開催 11月20日(木) ダウ終値、7552ドル29セント(▼444ドル99セント)。下落率▼5.5%。2003年3月12日以来の安値 11月23日(日) 米政府、シティグループに対して、シティの不良資産に損失が発生した場合、大半を政府が埋め合わせることを保証したほか、200億ドルの追加の資本注入も発表
12月1日(月) ダウ終値、8149ドル09セント(▼679ドル95セント)。下落幅史上4位、下落率▼7.7% 12月16日(火) 米FOMC、金融政策史上初となる事実上のゼロ金利政策を実施 2009(平成21)年 1月2日(木) ダウ終値、9034ドル69セント(△258ドル30セント)。2008年11月5日以来終値で9000ドル台回復 1月20日(火) オバマ米新大統領就任式 2月24日(火) TOPIX終値、730.28ポイント。2003年3月11日以来バブル崩壊後の最安値(770.62ポイント)を更新 3月5日(木) ダウ終値、6594ドル44セント(▼281ドル40セント)下落率▼4.0%。1997年4月以来約12年ぶりの安値
ナスダック終値、1299.59ポイント(▼54.15ポイント)。2003年3月以来の1300ポイント台割れ3月9日(月) 日経平均終値、7086円03銭(▼87円07銭)。2008年10月27日以来バブル崩壊後の最安値を更新
ダウ終値、6547ドル05セント(▼79ドル89セント)。3月5日の安値を更新3月10日(火) 日経平均終値、7054円98銭(▼31円05銭)。3月9日に引き続きバブル崩壊後の最安値更新 3月12日(木) 東証株価指数(TOPIX)終値、700.93ポイント(▼21.35ポイント)。バブル崩壊後の最安値更新。1983年12月14日以来、約25年3か月ぶりの安値水準
4月30日(火) 米大手自動車会社で「ビッグスリー」の一社であるクライスラー、連邦倒産法第11章の適用をニューヨーク市の破産裁判所に申請 6月1日(月) 米最大手自動車会社で「ビッグスリー」の一社であるGM(ゼネラルモーターズ)、連邦倒産法第11章の適用をニューヨーク市の破産裁判所に申請 6月12日(金) 日経平均終値、10135円82銭(△154円49銭)。年初来高値を更新。2008年10月7日以来約8か月ぶりに終値で1万円台を回復 6月24日(水) 米FOMC、ゼロ金利政策を継続 8月26日(水) 日経平均終値、10639円71銭(△142円35銭)。年初来高値を更新 8月30日(日) 衆議院総選挙。自民党大敗、民主党大勝 9月16日(水) 鳩山由紀夫内閣(第93代首相)成立(民主・社民・国民新の連立政権) 10月14日(水) ダウ終値、10015ドル86セント(△144ドル80セント)。2008年10月3日以来、約1年ぶり1万ドル台を回復。年初来高値を更新。3月9日(月)の最安値からの上昇率△53% 11月1日(日) 米ノンバンク大手のCITグループ、連邦破産法11条の適用を申請し経営破綻。2009年6月末時点の総資産は710億ドル(約6兆4000億円)で、6月に破綻したGMに次いで米史上5番目の大規模倒産 11月27日(金) アラブ首長国連邦のドバイ政府、政府系持株会社ドバイ・ワールドの債務返済繰り延べの要請を発表。世界的に株式相場が急落(ドバイ・ショック)
日経平均終値、9081円52銭(▼301円72銭)。下落率▼3.22%12月16日(水) 米FOMC、ゼロ金利政策を継続 12月30日(水) ダウ終値、10548ドル51セント(△3ドル10セント)。2008年10月1日以来約1年3か月ぶりの水準を回復。年初来高値を更新
2009年のニューヨーク・ダウは2年ぶりに年間ベースで上昇。2009年の上昇率は18.8%となり、2003年(上昇率約25%)以来6年ぶりの大きさ。3月9日に付けた12年ぶりの安値(6547ドル05セント)からの上昇率は約6割。しかし米証券大手リーマン・ブラザーズが破綻する直前の水準(11421ドル99セント)はまだ下回る
ナスダック終値、2291.28ポイント(△2.88ポイント)。2008年9月3日以来の高値まで回復。ナスダックの2009年の上昇率は△43.9%2010(平成22)年 1月19日(火) 日本航空、グループ2社と共に東京地方裁判所へ会社更生法の適用を申請。同日中に企業再生支援機構が支援を発表。負債額は3社で約2兆3221億円(2009年9月30日現在)、戦後4番目の大型倒産、事業会社としてはそごうグループを超えて最大規模の倒産。 1月27日(水) 米FOMC、ゼロ金利政策を継続 2月18日(木) 米、2006年6月以来、約3年8か月ぶり公定歩合を引き上げ。0.25%引き上げ、年0.75%に 4月2日(金) 日経平均終値、11286円09銭(△41円69銭)。連日で年初来高値を更新。2008年10月1日以来、約1年半ぶりの高値水準 4月23日(金) ダウ終値、11024ドル28セント(△69ドル99セント)。2008年9月19日以来約1年7か月ぶりの高値
ナスダック終値、2530.15ポイント(△11.08ポイント)。2008年6月以来約1年10か月ぶりの水準を回復。昨年来高値を更新6月8日(火) 管直人内閣(第94代首相)成立(民主・国民新の連立政権) 8月25日(水) 日経平均終値、8845円39銭(▼149円75銭)。連日で年初来安値を更新。2009年4月30日以来、1年4か月ぶりの安値 9月10日(金) 日本振興銀行、経営破綻 9月28日(火) ニューヨーク商品取引所(COMEX)の金先物相場12月渡しの終値、1オンス=1308ドル30セント(△9ドル70セント)。終値で史上初の1300ドル台突入 10月25日(月) 東京外国為替市場、円は一時1ドル=80円45銭まで上昇、1995年4月以来約15年半ぶりの円高水準に 11月4日(木) ダウ終値、11434ドル84セント(△219ドル71セント)。今年4月26日の年初来高値(11205ドル03セント)更新。2008年9月8日以来の高値、米証券大手リーマン・ブラザーズ経営破綻前の水準を回復 11月18日(木) 日経平均終値、10013円63銭(△201円97銭)。6月22日以来約5か月ぶりに終値で1万円台回復 2011(平成23)年 2月1日(火) ダウ終値、12040ドル16セント(△148ドル23セント)。2008年6月19日以来約2年7か月ぶりに12000ドル台を回復 2月18日(金) 日経平均終値、10842円80銭(△6円16銭)。2010年4月30日以来約9か月半ぶりの高値 3月2日(水) ニューヨーク商業取引所(NYMEX)の米国産標準油種WTI4月物終値、1バレル=102.23ドル。終値としては2008年9月下旬以来約2年5か月ぶりに100ドル超え 3月11日(金) 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)(M9.0。死者・行方不明者約2万名) 以下、表8-2に続く
ウィキペディアの「世界金融危機 (2007年-)」の項も参考にして頂きたい。
また、過去の日経平均株価の推移が気になった方々は、日本経済新聞社の公式サイトである日経平均プロフィールも御覧頂きたい。1949年5月16日に東京証券取引所が戦後初めて取引を再開して以降、現在までの日経平均株価の終値を検索出来る。
下落幅と下落率、もしくは上昇幅と上昇率に興味がある方々は、同じ日経平均プロフィールの「上昇記録」または「下落記録」を御覧頂きたい。
また、No.4でも前述したが、アメリカ大統領選挙と株価暴落には関連性があるようである。
表5-22 アメリカ大統領選挙と株価暴落の関連性 アメリカ大統領選挙 株価暴落日 暴落の内容 1928年11月(フーバー当選) →(11ヶ月後)→ 1929年10月29日(火) 「暗黒の火曜日」、世界恐慌はじまる 1932年11月(ルーズベルト当選) →(4ヶ月後)→ 1933年3月4日〜13日 バンク・ホリデー(全銀行閉店)
※バンク・ホリデーは、『世界同時デフレ』91-92頁、『「大恐慌型」不況』64-67頁、『日本発世界大恐慌はやってくるか』209-211頁でも説明されている。1936年11月(ルーズベルト再選) →(9ヶ月後)→ 1937年8月以降景気は急降下 1988年11月(ブッシュ父当選) ←(11ヶ月前)← 1987年10月19日(月) ブラックマンデー。ダウの下落幅▼508ドル00セント(下落率22.6%)
(※この時のみ株価暴落が先、大統領選が後)1996年11月(クリントン再選) →(11ヶ月後)→ 1997年10月27日(月) ダウの下落幅▼554ドル26セント(下落幅史上1位、下落率7.2%) 2000年11月(ブッシュ子当選) →(9ヶ月後)→ 2001年9月17日(月) 9・11同時多発テロ事件による株式市場休場後の再開当日。ダウの下落幅▼684ドル81セント(下落幅史上1位、下落率7.1%) 2008年11月(オバマ当選) ←(ほぼ同時進行)→ 2008年9月〜10月末 リーマン・ショック
2007年7月19日のダウ最高値・14000ドル41セントからの下落率▼?.?%
▼北京オリンピックはベルリンオリンピックと対称されるか(1936年=2008年)
2008年の夏季オリンピック開催地は中国・北京である。また、2010年には上海で万国博覧会も開催されることになっている。
しかし、「独裁国家がオリンピックを開催すると、その後体制が崩壊する法則」というものがあるのをご存知だろうか。
表5-23 独裁国家がオリンピックを開催後、体制が崩壊する法則 年 オリンピック名 開催国 その後 1936年 ベルリンオリンピック ナチス・ドイツ 9年後…1945年5月第2次大戦に敗北 1980年 モスクワオリンピック ソビエト連邦 11年後…1991年12月ソビエト連邦解体 1984年 サラエボ冬季オリンピック ユーゴスラビア連邦 7年後…1991年5月内戦突入(〜2000年)、ユーゴスラビア連邦解体 2008年 北京オリンピック 中華人民共和国 ?
最短はオリンピックから7年後(ユーゴスラビア)、最遅でも11年後(ソ連)には、その国の体制が崩壊しているのである。とするなら、中華人民共和国も早ければ2015年、遅くとも2019年までに体制が崩壊することになる。
この法則をわたくし(管理人)が最初に目にしたのは、巨大匿名掲示板2ちゃんねるの『【国際】 「日本も潜在的な中国の攻撃対象に」「08〜15年に、中国・台湾危機」 米専門家ら分析 』(2006年3月19日スレッド立て、http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1142738844/。しかし勿論既にdat落ちしている)の464番目のレス(2006年3月20日) にあったものだが、どうやらコピペされたものらしく、一体誰が最初に発見したのかは不明である。これより古い初出をご存知の方は、是非「当ウエブサイトについて」のメールフォームからお知らせいただきたい。
また、ベルリンオリンピックの前後も、ナチス・ドイツはきな臭い事件を起こし続けていた。
表5-24 ベルリンオリンピックの前後の国際的事件 1935年 3月16日 ドイツ、ベルサイユ講和条約を破棄。再軍備宣言 1936年 3月7日 ドイツ、ロカルノ条約を破棄しラインラントに進駐 7月17日 スペイン内戦はじまる 8月1日 ベルリンオリンピック開幕
北京オリンピックがベルリンオリンピックと対称されるとするならば、その前後は国際的事件が起きる(中国が起こす?)ものと考えて、注意しておいたほうがよいのかもしれない。
…と、2007年3月にここまで書いたのだが、2008年4月以降、情勢が急展開した。言うまでもなく、チベットでの暴動、それに伴う諸外国の中国人権状況の批判、3月24日のギリシャから開始された聖火リレー開催地における抗議行動である。主としてヨーロッパ諸国を中心として、抗議のためにオリンピックの開会式への不参加を表明する国家首脳が増えている。
表5-25 北京オリンピックの前後の国際的事件 2008年 3月14日 チベット・ラサにて大規模な暴動が発生 4月6日 北京オリンピック聖火リレー地であるロンドンとパリにて、中国のチベット弾圧に対する大々的な抗議行動が発生 5月12日 四川省にて大地震発生。死者6万人以上 8月8日 ロシア軍、グルジアの南オセチア自治州に侵攻(南オセチア紛争) 北京オリンピック開幕(24日まで) 8月18日 パキスタンのムシャラフ大統領辞任
また、北京オリンピック開催と前後して、中国のバブル経済も崩壊に向かい始めているようである。
2007年5月、上海総合株価指数が史上最高値の4200ポイントを更新すると、就業時間内に「株式投資タイム」を設ける会社が出現。「サラリーマンなんてばかばかしい」とばかりに就職に背を向けた若者が証券会社の端末に群がった。
2007年10月16日、上海総合株価指数は6124ポイント(瞬間値)に達し、この日を境に右肩下がりに転じた。10月22日、指数は3ヵ月ぶりに5000ポイントを割り、11月には18%も下落した。
明けて2008年。チベットの暴動、四川大地震が発生し、すべてが大きく狂った。2008年4月22日には一時3000ポイントを割り込んだ。株式投資に失敗し自殺する素人投資家も増えているという(以上http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080430-00000004-fsi-bus_all …リンク切れ…より)。
▼日本企業の中国進出
戦前と現在は、日本企業の中国進出という点においても対称される点が多いと思われる。
NHK“ドキュメント昭和”取材班・編『ドキュメント昭和2 上海共同租界』(角川書店、1986)には、
『在華日本紡績企業(在華紡)の出発は、一九〇二年(明治三五)、三井物産上海支店が、それまで中国の民族資本で運営されていた楊樹浦(ヤンジェツボ)の紡績工場を買収したことからはじまる。
在華紡は、日本の「国策」として誕生したのではなく、民間の進出がその出発点であった。(中略)
世界綿業史上でもまれにみる大規模な進出といわれるこれら在華紡の発展は、日本国内で一九一六(※管理人註、大正5)年に工場法が施行され、法律上は女子の深夜業廃止がきまったことや、一九二〇年来の不況で操業短縮をせざるをえなかったことなどがその要因としてあげられている』(59‐60頁)
とある。
田中秀臣・安達誠司『平成大停滞と昭和恐慌』(NHK出版、2003)には、
『日本でもっとも高い国際競争力を有していた産業は紡績業であったが、中国の安価な労働力を利用する傾向が一九二〇年代後半から高まり、日本の大手企業は中国へ進出していった(いわゆる「在華紡」問題)。(中略)
しかし、デフレを克服した一九三二年以後は国内紡績業のROEが在華紡を上回るようになり、逆に日本紡績業の競争力の高さが国際問題化した(いわゆるダンピング問題である)』(106-107頁)
とある。
1931(昭和6)年12月13日、犬養穀内閣が実施した金輸出再禁止によって、円の為替レートが急落し、円安ドル高が進展したため、日本の輸出産業が活気づくことになった。このため、欧米からはソーシャル・ダンピング(不当廉売)という批判を受けることになった(以上、有沢広己監修『昭和経済史 上』日経文庫、1994、136-140頁、塩田潮『バブル興亡史』日経ビジネス人文庫、2001、391-392頁より)。
当時の紡績産業と対称される、現代の日本の主力輸出産業は、自動車産業だろう。
2008年においても、トヨタやホンダなど、日本の自動車メーカーは、世界一流の規模と売れ行きである。特に北米において顕著のようだ。
トヨタ自動車が24日発表した2007年1〜3月期のグループ世界販売台数は 234万8000台となり、これまで世界最大手に君臨していた米ゼネラル・モーターズ (GM)の226万台を超え、4半期ベースで世界一となった。
原油高騰を機に燃費の良い小型車の人気が集まり、欧米やアジアを中心に海外での販売を好調に伸ばした。2007年の年間販売でも世界一になるのは確実。米国を代表する企業であるGMの販売台数を抜くことで、新たな摩擦を生む可能性も出てきた。
(http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20070424-189164.htmlより。リンク切れ)2007年から2008年にかけての円ドル相場は、急激ではないが、円安だった。ところが、2008年10月以降に世界金融危機が本格化すると、円高となった。
近年の相場をグラフで確認されたい方は、ウィキペディアの円ドル相場、もしくはYahoo!ファイナンスの円ドル相場を御覧になるとよいだろう。
また、別宮暖郎・兵頭二十八『戦争の正しい始め方、終り方』(並木書房、2003)には、
『別宮 実はその時点での日本の対中投資は、満州でなく上海に集中していた。それも重工業でなく軽工業が中心だったのです。もうすでに人件費は中国の方が圧倒的に安くて「在華紡」と呼ばれる日本の綿業資本が、輸出向けに揚子江下流地域へ多数の工場を進出させていたのですよ。 兵頭 つまり蒋介石は、そこさえ支配すれば日本の全投資も、また日本や英米の貿易もすっかり握ってしまえると、よくわかっていたわけですね』(172-173頁) とある。
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工事中
この部分はまだ作成中です。ご迷惑をおかけしております。
完成まで今しばらくお待ち願います。 m(__)m
大杉一雄『日中十五年戦争史』(中公新書、1996)
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やがては、中国に進出した日本企業の権益保護のため、日本は中国に出兵することになるのだろうか?
しかし、No.3の「▼大陸との緊張増大」でも前述したように、アメリカの軍事的属国である日本に、軍事において主体性などないのだ。なので、アメリカが、中国と対抗するという意思を本格的に決定しない限り、日本も自衛隊を動かせるような事態には至らない可能性が高い。逆に言えば、アメリカ政府と軍が動けば、日本の政府と自衛隊がそれに追随する動きを取らないわけがないのである。
▼アメリカ大統領選挙(1936年=2008年)
2008年11月4日(米現地時間)投票のアメリカ大統領選挙には、民主党からはバラク・オバマ上院議員が、共和党からはジョン・マケイン上院議員が出馬した。
日本では、当初は最有力候補と見られていた民主党候補のヒラリー・クリントン上院議員が大統領に当選した場合、夫のビル・クリントン時代と同じように、中国と協調を強める一方で、日本に対しては厳しい姿勢をとるのではないかと心配されていた。特に片岡鉄哉氏がこの指摘をしていた(「ブッシュは日本核武装を認めた」Voice2007年2月号など)。
また、伊藤貫『中国の「核」が世界を制す』(PHP研究所、2006、257-286頁)では、クリントン夫妻や米民主党と、中国共産党との間の“密接”な関係について指摘されている。
島村謙司『ヒラリー“大統領”が導く米中「ジャパン・ナッシング」への道』(「中央公論」2007年6月号)では、ヒラリーが大統領に当選した場合の主な閣僚の予想や、日米中の3角外交関係のシミュレーションが行なわれている。
2008年のアメリカ大統領選挙において、”反日的”な、“ジャパン・パッシング”で中国との友好を重視するヒラリーが当選したなら、日本は少なくとも、次の大統領が就任する2013年1月までの4年間、我慢しなくてはならなかったのである。
幸い、ヒラリーは大統領選から撤退し、選挙ではオバマが勝利したのである。
……2008年以降どういう経過を辿ったのかはNo.8で検証することにして、次項のNo.6からは、先に1919=1989年以前の事例を、近代70年サイクル第1周期のはじまり、即ち1763年まで溯って見てみたい。
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